第5回 エジプト文明

○今回の年表

前2650年 エジプトで古王国の誕生。前2635年には、階段ピラミッドを建設。
前1792年 バビロニアでハンブラビ王が即位。ハンブラビ法典の編纂。
前1650年 ヒクソスがエジプトに侵入し、征服。
前1595年 ヒッタイトがバビロン第1王朝を滅ぼす。
前1552年 アアフメス1世が、ヒクソスを追い出して、エジプトの新王国時代が始まる。
前1364年 アメンヘテプ4世(イクナートン)即位。宗教改革の開始。
前1343年 ツタンカーメンの即位。宗教改革の破棄と回帰。
前1286年 カディッシュの戦い。エジプトのラメセス2世が、ヒッタイトと交戦。
前1050年 中国で、「周」王朝が開始される。
前1025年 サウルが、パレスティナにヘブライ王国を建国。
前814年 フェニキア人が、北アフリカに植民地カルタゴを建設。
前745年 アッシリアがオリエントを大半を統一し、アッシリア帝国として強大になる。
前663年 アッシリア帝国のアッシュールパニパル王が、エジプトの首都テーベを占領。
前625年 メソポタミアで新バビロニア王国が成立。前609年にはアッシリアを滅ぼす。
前550年 アケメネス朝ペルシアによって、メディア王国が滅亡。前539年には新バビロニアが滅亡。
前525年 アケメネス朝ペルシアのカンビュセス、エジプトを征服。全オリエントの統一。

●エジプトはナイルの賜物

 「エジプトはナイルの賜物である」
 古代ギリシアの歴史家ヘロドトス(前485頃〜前425年)の言葉です。その言葉通り、エジプト文明は、時には大洪水という気むずかしさを見せるナイル川と共に発展してきました。メソポタミア文明や、その他の文明と同様、川の流域で文明が栄えることになります。

 まずは前4000年〜3000年に、ハム語族によって都市国家群(ノモス)が造られるようになります。

 が、都市国家分立状態はメソポタミアより600年ほど早く終結し、最初の統一王朝が前3000年頃に出来上がります(第一王朝)。国王はファラオ(大きな家の意)と呼ばれ、神の化身とされ、宗教的権威を持ち国家のトップとされます。神=王、という神王理念です。が、その実態は有力な首長の一人にすぎず、第一王朝〜第二王朝までは権威確立に奔走することになります。その過程で、都としてメンフィスが築かれ、ファラオが任命した州知事を地方に派遣し、中央集権化を進めます。

●ピラミッド建造

カフラー王のピラミッドとスフィンクス (撮影:ムスタファ 禁転載)

 さて、エジプトと言えばピラミッド。
 ピラミッドが特に建造されたのは第三王朝〜第六王朝の古王国時代(前2650〜前2160)年頃のこと。バビロニア王国誕生の前1900年より、ずっと前のことになりますね。

 ピラミッドはファラオの墓として建造されたもので、昔は「これは、多くの奴隷を酷使して造ったに違いない!」と、言われておりましたが発掘が進むに連れ、医療施設などが充実していることが判明。つまり、労働者は作業中に傷つくと、ここで治療される。

 奴隷だったら、死ぬまでこき使われるわけで、これによって奴隷説が否定されます。その後の研究で、ピラミッドはファラオの権威を示すと同時に、公共事業として造られたものではないか、と考えられるようになっています。

 さて、ピラミッドの中で特に有名なのが第四王朝時代のクフ王カフラー王メンカウラー王の、通称ギザの三大ピラミッドです。ここに王権は最高に達したと見て良いでしょう。


クフ王のピラミッド(撮影:ムスタファ 禁転載)

カフラー王のピラミッド(撮影:ムスタファ 禁転載)
 ということは、ここからは衰退が始まったと言うことで、ピラミッドも小さくなり、現実世界ではファラオの権限も縮小し、名誉的となり、州知事が群雄割拠する状態へとなります。一方、皮肉なことに文化面では古い価値観から脱却することになったとか。

 そして王国は北と南に分裂し、次に前2040年、南のテーベ王朝が再統一を果たします。以後、第一一/第一二王朝を中王国時代(〜前1786年まで)と呼びますが、この時代、メソポタミアより遊牧民ヒクソスが侵入。ご存じの通り、バビロニア王国なんかはインド・ヨーロッパ語族系の遊牧民に滅亡させられましたが、エジプトも例外ではない。この時代に起こった民族移動の余波を受けて、滅んでしまいました。ここに最初の異民族王朝ヒクソス王朝が誕生します。

 この征服下で、騎馬と戦車というものが伝来。エジプト人達は新しい兵器を手に入れます。そしてヒクソスを、軍事力を蓄えたテーベの王朝が倒し、新王国時代が到来します。今度は、攻撃される前に攻め込む、特に、トトメス三世(前1490〜前1436年)は、シリア方面に侵攻し征服。ここを植民地、属領として支配。総督が派遣され、都市国家の王達は長子を人質としてエジプトに送ることに。

 そんなわけで、この時代のオリエント地域は、ヒッタイト、エジプト、それからカッシートの弱体化に乗じて、またまた勃興したアッシリアが、シリアやパレスティナを巡って争い、また一方で交流を深めるという社会情勢でした。アッシリアは本当によく登場しますねえ。詳しくはあとのページで書きます。
●宗教がうるさくなってくる

 トトメス三世アメンホテプ三世といった王により、エジプト王国は繁栄を極めますが、一方で、王の保護に傘を借りたテーベの主神アメンなどを信仰する教団は、莫大な財宝を蓄え、政治に口を出してくるようになります。

 そこで次の王、アメンホテプ四世(別名:イクナートン 位 前1350〜前1334年)は、手っ取り早く王都テーベを捨てて、テル・エル・アマルナに遷都。さらに、アメンなどの他神を信仰することを禁じ、アテンという新しい神様一つを信仰するように強制します。

 また、この時期は極めて写実的で、その後の中世ヨーロッパ何かより、遙かに上手な人物像等を作ったアマルナ芸術が栄え、文化面でもそれまでと大きく異なるものが登場しました。しかし、うるさい王が亡くなってしまえばそれまで。また復古主義的になり、おそらく抵抗勢力が盛り返し、元通りとなりました。ちなみに、このアメンホテプ4世の次の王が、有名なツタンカーメン。僅か9歳で王位に就き、18歳で死去します。(写真:エジプト旅行情報-Osiris Express http://www.osiris-express.com/より)

 何で有名なのかというと、ほとんど盗掘の被害に遭っていたエジプト王家の墓の中で、ツタンカーメンの墓は完全な状態で発掘されたからです。1922年、イギリスの考古学者ハワード・カーターが墓を発見し、黄金のマスクをかぶった王のミイラ、豪華な副葬品が見つかっています。

 ところで、アメンという神様を紹介しましたが、エジプト人は太陽神ラーと言う神様を中心としている多神教を信仰していました。これは、その後テーベの神であるアメンと結びつき、アメン・ラーという信仰になります。

 それから、エジプトで忘れてはいけないのがミイラ。霊魂不滅、オシリス神の支配する死後世界を夢み、彼らはミイラを作って、体を保存しました。でも、脳みそは保存しなかったらしいですね。それから、碑、石室などに書かれた象形文字である神聖文字ヒエログリフ。解読にまつわるドラマが有名ですが、ここでは割愛します。

 それから、エジプトでは公文書を紙の一種であるパピルスに記しました。パピルスは、この地方に自生するカヤツリグサ科の水湿生の多年草の一種で、茎をうすくさいた繊維を縦におき、その上に別の繊維を横に交差させます。次に、全体を水でしめらせ、圧縮し乾燥。象牙や貝でこすって仕上げます。それを、巻物のような形にして、使ったのです。また、ここでは、ヒエログリフと違い民用文字デモティックというものが使われています。



ロゼッタストーン
 ところで、大英博物館にはロゼッタストーンという非常に有名な石碑が所蔵されています。

 これは1799年、ナポレオン・ボナパルトによるエジプト遠征の際にエジプトのロゼッタで発見された石碑で、エジプト語の神聖文字(ヒエログリフ)と民衆文字(デモティック)、そしてギリシャ文字という、3つの文字で同様の内容が書かれています。写真2枚目が、ヒエログリフとデモティックですね。

 ギリシャ文字は当時の学者が解読できたことから、これをベースにヒエログリフとデモティックが解読できるに違いない!と、多くの研究者が挑戦をした結果、最終的にジャン=フランソワ・シャンポリオン(1790〜1832年)によって解読され、エジプト考古学が大きく進展しました。

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