第9回 アケメネス朝ペルシアとギリシャ

○今回の年表

前745年 アッシリアが全オリエントを統一し、アッシリア帝国として強大になる。
前598年 新バビロニア王国が、ユダ王国を滅ぼし住民を強制移住&奴隷化(バビロン捕囚)。
前550年 アケメネス朝ペルシアによって、メディア王国が滅亡。前539年には新バビロニアが滅亡。
前525年 アケメネス朝ペルシアのカンビュセス、エジプトを征服。全オリエントの統一。
●アケメネス朝ペルシアの成立

 このように、新バビロニアや周辺国は栄えますが、もっと強い勢力が誕生。それが、イラン(ペルシア)人によるアケメネス朝ペルシア帝国

 アケメネスというのは、最初の族長の名前です。最初はメディア王国の支配下にありましたが、キュロス2世(大王)は、メディアに対して反乱。前550年にこれを滅ぼし(赤色が初期領土)、リディア(前546年)、新バビロニア(前539年)と、次々と滅ぼし、カンビュセス2世はエジプトを滅ぼしオリエントを統一しました。

 ちなみに、メディア王国に対する反乱時、メディア軍の一部もペルシアに協力しています。そのためメディア人はペルシア人と同格として大切に扱われました。ゆえに、アケメネス朝の支配機構はペルシア人とメディア人で占められていました。


 絶頂期を迎えたのは、 ダレイオス1世(位 前522〜前486年)の時です(上図は最盛期の領土)。実は即位時、カンビュセス2世の弟を名乗る偽物の祭司ガウマータによって王位が奪われていました。そのため、まずはこれを殺す事から、彼の王としての仕事が始まりました。次に、帝国内での反乱を次々と鎮圧。

 そして帝国を20の州にわけ、それぞれに知事(サトラップ)を派遣。さらに、監察官を派遣し、「王の目」「王の耳」として監視します。また、交通網の整備として幹線道路「王の道」をつくって駅伝制をととのえ(2400kmを7日で結ぶ)、経済活動を活発にするために金・銀2種の欽定(きんてい)通貨をつくります。

 ところで、彼の凄いところは、国内のさまざまな民族に対してはその宗教を尊重したところです。例えば、バビロン補囚などで弾圧されていたユダヤ人に対しては、エルサレム神殿を再建を許可しています。

 さらに、アッシリアなどでは全地域に1つの法律を適用していましたが、ダレイオス1世は地域ごとに慣習などを重んじ、服属する限りはなるべく干渉しませんでした。ただし、前述のように統治者にはペルシア人・メディア人をあてました。


●ペルシア戦争

ところが、そんな王に難題が発生。小アジアのミレトスにいたギリシア人達が、反乱を起こしたのです。まあ、これはペルシアの対外拡大政策が仇となった物です。

 ちなみに、詳しくはヨーロッパ史をご覧になっていただきたいですが、当時のギリシアはポリスという都市国家に分かれていました。代表的なのがアテネ、スパルタ。その他に、対外的に植民市を持っていて、その中の一つが小アジアのミレトス。 ここが、反乱を起こします。それだけなら良かったのですが、反乱をアテネが支援した事が、ダレイオスの逆鱗に触れました。ちなみに、この反乱はギリシアの敗北。前494年、ラデ島沖の戦いで反乱軍は大敗を喫します。
 さあ、当然待っているのはペルシアによる報復攻撃です。ダレイオスはギリシャに向けて遠征を開始します。総大将は彼の甥、マルドニオス。マケドニアなど東部ヨーロッパ征服をした人物です。

 これが、第1次ペルシャ戦争。しかし、アトス岬沖で大しけに遭い、そのまま撤退ということに。もっともこの時はペルシャも力を入れていなかったから、まあよしのようでした。しかし、前490年、今度は本格的に遠征を開始します。ところがこれはアテネの貴族ミルティアデス指揮する重装歩兵軍により、マラトンで大敗を喫します。勝敗を分けたのは武装の違い。アテネは長い槍と重武装。

 一方、ペルシア軍側は遠征ということもあり短い槍、軽武装というもの。しかも地の利はアテネにあります。これでは話になりません。

 ちなみにこの時、マラトンから「勝ったよ〜」と伝令が42kmを走り抜き、アテネにたどり着いたという逸話がマラソンの名称と競技の由来。一般には史実ではないとされていますが・・・・。結局ペルシアは、支配下にあったエジプトがこれを聞いて「ペルシアも怖くねーな」と起こした反乱の討伐もしなくてはならなくなり、ダレイオス1世の死後にリベンジすることになります。

 前480年、第3次ペルシア戦争。今度は、ペルシアは本気です。ダレイオスの子、クセルクセス1世(前486〜465年)が、1207隻の軍船を率い、自ら遠征を行います。途中、スパルタの軍勢をコテンパンに打ち破り意気揚々。宿敵アテネに迫ります。

 これに対しアテネ側は、まず婦女子をサラミス島に非難させ、さらに戦闘員たる男達も逃げるそぶりを見せます。ペルシア軍は、当然追ってきます。ところがこれは作戦。こうしてアテネ軍は、狭いサラミス水道にペルシア軍大艦隊を誘い込みます。大艦隊ですから、狭いと身動きがとれない。そこで、アテネは自らの水軍で各個撃破してしまいました。これがサラミスの海戦です。

 その後、小競り合いが続きますが、ペルシアは敗北をし続け、さすがのペルシアもあきらめ、「カリアスの和約」が結ばれ、イオニア地方の独立が承認されました。だけでなく、ヨーロッパ支配の夢も絶たれることになったのです。とはいえ、強大なペルシアにとってペルシア戦争敗北は、ちょっとした失敗にすぎないことでした。

 むしろその理由は以下の通り。それは、ダレイオス1世死後に起こった宮廷内での争いです。自らギリシャ遠征を行ったクセルクス1世は皇太子のダレイオスに殺されます。ところが、皇太子ダレイオスもまた殺されます。カリアスの和約を結んだ時に国王は、その弟アルタクセルス1世ですが、彼自身はともかく、その後はまたまた皇族の皇位継承争いが行われます。

 前336に即位したダレイオス3世までひたすらお互いを暗殺しあい、そして前330年、ギリシアを統一したアレクサンダー大王の猛攻により、ペルシアは滅亡してしまいました。ですが、この王家の内紛の中、アケメネス朝の統治機構はきちんと機能していました。それだけ、ダレイオス1世の考案した統治システムが優れていたと言う事でしょう。

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