第16回 イスラム教の基礎はこうして誕生した/2

○今回の年表

622年 ムハンマド、ヤスリブ(メディナ)に移住。この日がイスラム暦紀元元年元日となる。
630年 ムハンマド、メッカを占領。
632年 ムハンマド、死去。アブー・バクルが初代カリフに。

○迫害に耐えて


 さて、最初のアラーからの啓示から4年ほど、ムハンマドは近親者を中心に布教していたため、信者は30人ほどでした。それでも唯一神を信仰するムハンマドには厳しい視線が。しかし、ムハンマドを育ててくれた叔父アブー・バクルの保護のおかげで大事には至りませんでした。

 が、619年になると富豪であった妻ハディーシャも、叔父も亡くしてしまい、大きな後ろ盾をムハンマドは無くし、一族からの保護を受けられなくなりました。これは、命の危険も保証されなくなることで、当時では危険な状態で、さらにムハンマドは叔父の息子と対立。やばい。

 そんな中、ナウファル家の家長ムトイムが、メッカでの伝道をしないことを条件に保護してやろうということになりました。しかし、ムハンマドは密かにメッカに来る遊牧民などに教えを説き、次第に教えが広まっていきます。そんな中、メッカの北340kmにあるヤズリブ(後のメディナ)からムハンマドのところに使者が来ます。

 当時ヤズリブ(メディナ)では、アウスとハスラジュという2つの部族が争っていたのですが、そろそろ和平を結ぼうか・・・、だが調停を誰に任せよう、そうだムハンマドとかいうのがいるらしい、あいつに任せてみよう、ということになったのです。ムハンマドは、見事この調停に成功し名声を高めます。

 そして、ヤズリブから「ムハンマドさん、こっちにいらっしゃい!」と声がかかります。といっても、メッカからの引っ越しには制約があったのでしょう。ここを守るクライシュ族の目を盗み、迂回ルートを使いながら、70名の信徒と共にメディナへ行くことが出来ました。これは、移住(ヒジュラ)という大きな出来事として記録され、同時にその日は、イスラム暦の紀元元年元日とされました。

 もちろん、これでめでたしめでたしではありません。ムハンマドは、メッカを征服することにします。
 そのためには、メッカの重要産業である隊商貿易、この隊商を襲って、経済的打撃を与えることにします。ムハンマドは信者全員で出撃。メッカ側も黙ってはいない。ムハンマド軍の2倍に当たる950人を、ムハンマドが目をつけた隊商を守るために迎撃に出ます・・・が、ムハンマド軍の前に敗北。逆にムハンマドは名声を大きく上げます。

 ちなみに、これは9月(ラマダン)に行われた戦いだったので、この戦勝を神に感謝し、断食の月としました。その後、メッカから攻め込まれますが撃退。627年頃からはヤスリブのムハンマド側が有利になり、630年にメッカを降伏させます。勝ったムハンマド。イスラム教徒は相容れないカーバ神殿の偶像を打ち倒し、イスラム教の神殿にします。

 ・・・で、終わりではないです。この争いを見ていて漁夫の利を狙ってきたハワーズイン族20万に軍勢が攻めてきました。しかし、これにも勝利を収め、アラビア中でムハンマドの株がアップ!信者もどんどん増え、アラビア半島がムハンマドを盟主として、統一されていきました。

 しかし、632年。健康状態が悪化したムハンマドは死去しました。

↑ PAGE TOP

data/titleeu.gif