第20回 イスラム帝国の分裂とカリフ権の衰退

○今回の年表

946年 ブワイフ朝がバグダードを陥落。アッバース朝カリフから「アミール・アルマウワー(大将軍)」の称号をうける。
969年 ファーティマ朝がエジプトを征服。都をカイロに置く。
977年 アフガニスタンにガズナ朝が誕生。
1031年 後ウマイヤ朝が滅亡。
1051年 (日本)前九年の役。源頼義VS安倍頼時。
1055年 セルジューク朝がバクダードに入城。アッバース朝カリフからスルタンの称号を受ける。
1071年 セルジューク朝マンジケルト(マラーズギルト)の戦いでビザンツ帝国に大勝。
1066年 ノルマンディー公ウィリアムがイギリスを占領。ノルマン朝を開く。
1069年 宋の王安石、新法の施行を始める。
1077年 カノッサの屈辱。神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ4世が、ローマ教皇に許しを乞う。
1086年 北アフリカのムラービト朝、イベリア半島に進出。
1099年 十字軍がイェルサレムを占領。

○トルコ民族の大移動?

 事実上、アッバース朝を支配下に置いたブワイフ朝でしたが栄光は長く続かず。中央アジアに住んでいたセルジューク族という、トルコ系の民族によって滅ぼされます。

 このセルジューク族とは何者か。彼らは10世紀末にスンナ派のイスラム教徒に改修したトルコ族です。トルコ・・・といっても、当時は、今のトルコにいたわけではありません。中央アジアに住んでいて、セルジューク族はサーマーン朝という中央アジアの王朝の衰退を機に、ソグディアナに進出し、族長トグリル・ベクが1038年、セルジューク朝トルコ建国を宣言。

 何故、進出したかというと、人口増だとか部族間の抗争による圧迫だとかで、とにかく居住地域を変えたり広げないといけなかったからです。ちなみに、他に中央アジアのトルコ系王朝として名高いのは、アフガニスタンにあったガズナ朝(977〜1186年)。4代国王のマフムード(位998〜1030年)は、インドに侵入し、ヒンドゥー教寺院を破壊し、イスラム教の擁護者として名声を獲得しました。

 オッと話がそれました。セルジューク朝は引き続き西へ進み、ペルシア地域を支配下に置くと1055年にはバグダードに進撃し、これを占領。ブワイフ朝を倒し、これに代わってアッバース朝を保護下に起き、トグリル・ベクはアッバース朝カリフから、スルタン(支配者)の称号を与えられました。これによって、イスラムの支配者はセルジューク朝となり、カリフ位は有名無実化してゆきます。また、スルタンの称号は20世紀初頭までスンナ派イスラム教君主の称号として使われます。

 で、セルジューク朝は、おきまりの東ローマ(ビザンツ帝国)と戦います。この少し前に、東ローマ帝国はバシレイオス2世によって、一時的にかつての勢いを取り戻し、バルカン半島やアルメニアなどを取り戻していたのですが、そのうちアルメニアはセルジューク朝に取られてしまいます。さらに、セルジューク朝は、ファーティマ朝領のシリア・パレスチナも征服し、1071年にはマンジケルト(マラーズギルト)の戦いで、東ローマ皇帝ロマヌス4世を捕虜にします。東ローマ側は、こりゃかなわんというわけで講和を結び、国境を確定させました。

 セルジューク朝は、こうやってみると戦争ばかりやっているように見えますが、実はスンナ派のモスクや教育機関であるマドラサ(学院)を建築するなどイスラム世界に大きな影響を残しました。マドラサは、学生が寄宿できる施設を備え、また寄付によって運営されることもよくあります。主にイスラム法学を教え、スンナ派を徹底させようとします。

 ただ、このセルジューク朝。均等分割相続制が災いしたらしく、次々と王族が割拠して地方政権に分裂。1200年までに大半が滅亡し、最後は1071年に分裂したルーム・セルジューク朝というアナトリア(今のトルコ)の王朝が、モンゴル帝国に滅ぼされて終わりました。


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