
モンゴル帝国皇帝
モンケ・ハンの命令で、その弟の
フラグ(1218〜65年)は西へ遠征をしました。そして、途中でニザール派を壊滅させ、細々と命脈を保っていたアッバース朝の首都バグダートに到達。ついに第37代カリフ・
ムスタースィムは降伏し、モンゴルの処刑の儀礼により絨毯に包まれ騎馬に踏み殺されました・・・ああ・・可哀想・・・。そしてカリフの一族は、エジプトに逃げ、アッバース朝を倒して建国されていた
マムルーク朝(1250〜1517年 マムルーク朝については次のページで解説)の保護を受けることになります。
もちろん、落ちぶれたとはいえカリフを殺すなど今までに考えられないような事態で、これはスンナ派イスラム界に大きな衝撃を与えました。そしてフラグは、
中東全域を支配下に治めると、シリア・エジプトのマルムーク朝と交戦をはじめます。ところが、その直後にモンゴル皇帝モンケ・ハンが死去。モンゴルではクリルタイという、部族の長を決める会議があるのでフラグ自身はモンゴルへ・・。軍は部下の
キト・ブカ・ノヤンに任せます。この人物は、ダマスクスなどを占領し、エジプトに攻め込もうとします。
ところが、マムルーク軍も黙ってはいない。スルタンの
クトズは、
バイバルスを司令官に任命し、反撃開始。1260年、パレスティナの
アイン・ジャールト(ゴリアテの泉)で行われた戦いで、フラグ軍は大敗します。ここでフラグ軍の進撃はストップし、以後はイラン・イラクで内政に力を入れます。
ちなみにモンゴルに戻ろうとしたフラグでしたが、ハンの位をめぐって兄の
フビライと弟
アリクブケが内戦を始めたことを知ると、彼は「マルムーク朝が油断ならん。こりゃ、占領地確保が優先だな」と、イランの地にとどまり、この地に
イル・ハン国(トルコ語で国の王の意)を建国します。といっても、別にモンゴル帝国から独立したわけではなく、まだ当時はモンゴル連邦の1共同体みたいな感じです。モンゴル帝国はこの後、フビライがハンの位に就き、彼が中国を支配する「
元」、モンゴル地域を支配する
オゴタイ・ハン国、中央アジアを支配する
チャガタイ・ハン国、そしてこの
イル・ハン国が分割成立し、オゴタイ・ハン国の
ハイドゥと元のフビライ=ハン抗争をきっかけに完全に分裂します
(*ただし、構図としてが元・イル・ハン国は仲がよく、イル・ハン国とチャガタイ・ハン国が領土をめぐって争う)。
フラグ死後、イル・ハン国は後継者争いで一時分裂の危機も迎えますが、フラグの曾孫・
ガザン・ハン&宰相
ラシード・アッディーンはこれを収め、最盛期を作り出します。ガザン・ハンはまず、イスラムと融合するために自らイスラム教に改宗。それから、ペルシア語や中国語にも精通し、さらに歴史学や医学・文学など学問も幅広くマスター。
そんな彼の下、首都の
ダフリーズは学問の都として大発展。「大モンゴル」のネットワークを生かし、中国人やヨーロッパ人の学者も多く招かれます。また、宰相のラシード・アッディーンはペルシア文学最高といわれる「
集史」を著わし、イル・ハン国のみならず、モンゴル全体の歴史書を完成させました。モンゴル人はもともと歴史書を残さないので、これは貴重な資料です。また、当然世界情勢についても書いてあるので、この時代を研究するに重要な著作です。
そんなラシード・アッディーン。次の
ウルジャーイートゥー=ハン(
位1304〜16年)にも重用されましたが、彼が没すると政敵によりウルジャーイートゥー=ハン毒殺の容疑をかけられ処刑されてしまいました。以後、イル・ハン国は衰退の道まっしぐら。1338年、フラグ直系の
アブー・ザーイド=ハンが死去すると、有力者による分裂と後継者争いがヒートアップし、そして誰もいなくなった、つまりフラグの子孫はことごとく殺されてしまいました。1353年のことです。
第25回 マルムーク朝 女性スルタンも登場 へ