第28回 オスマン帝国の繁栄と第1次ウィーン包囲
ところが・・、彼は残忍な刑罰を好みます。そして、彼の父親の名前はブラド・ドラクル。よく解んないのですが、この辺から吸血鬼ドラキュラのイメージが出来上がってしまったようです。 ちなみに、この地域は隙を見ては独立しようとし、事実独立を果たしたこともあります。オスマン帝国にとっては厄介な地だったようです。 メフメト2世はこの他、ロシア地域にも攻め込み、旧キプチャク・ハン国系のクリム・ハン国を保護国化におき、黒海沿岸に影響力を拡大しました。
なおもオスマン帝国の快進撃は続き、セリム1世(位1512〜20年)は、イランのシーア派国家サファヴィー朝を破ったほか、エジプトに侵攻。マルムーク朝を倒し、カリフ制度を完全に終焉させます。後に、オスマン帝国は自分たちをスルタン・カリフ制と称します。そして最盛期を創出したのがスレイマン1世(位1520〜66年)。1526年、彼はついにハンガリーにまで侵攻し国王ラヨシュ2世を戦死させます。次なる敵は、いよいよ神聖ローマ帝国カール5世。このカール5世、敬虔なカトリック教徒でしたが、ローマ教皇に嫌われ、さらにフランス王国のフランソワ1世からは目の敵にされています。なんと、フランスは公然と、ローマ教皇は非公式にイスラム国家であるオスマン帝国を支援するんです。そんな厳しい中、カール5世はオスマン帝国と戦うことになります。 1529年、スレイマン1世は、神聖ローマ帝国の首都ウィーンを包囲します。ウィーンは、たいした城壁も無く危険な状態。しかし、これは幸いにも、スレイマン1世が中小の大砲しか持ってこなかったため(雨が多く、道が悪かったため巨砲を持ってこられなかった)、そして冬が到来したため、しぶしぶオスマン帝国軍が撤退したことに救われます。 とはいえ、この後もハンガリー地域、それから地中海を巡ってオスマン・帝国(+フランス)VSハプスブルク朝神聖ローマ帝国の戦いは続きます。1538年には、プレヴェザの海戦で、ハイレッディン率いるオスマン帝国海軍が、アンドレア・ドリア指揮するローマ艦隊を打ち破ります。
それでもオスマン朝はまだ長く存続し、中にはムラト4世のようにサファヴィー朝からバグダードを獲得するなど、帝国を再び勃興させるスルタンもあわられ、1718〜1730年のチューリップ時代と呼ばれるアフメト3世のころの文化の発展など、まだまだオスマン帝国は意気盛んです。この後については、また現代史のほうで見ていくとしましょう。オスマン朝が滅亡するのは1922年。まだまだ先の話です・・・。
ここに使える女性は、主に奴隷市場から買われてきた処女の女性。かつ、多くのスルタンは金髪ギャル・・・おっと死語を口走りましたが、とにかく金髪の女性が好きだったようです。そういや、イラクのフセイン前大統領も金髪が好きだったね。ここで連れてこられた女性たちは、まずイスラム教に改宗させられ、音楽、ダンス、宮廷作法などなど、いい女になるための教育を受けます。 当然、外界と隔離されたこの区画に入れられた女性が願うのは、スルタンの寵愛を受け、子供を生むこと。ハーレム内でも役職がありましたが、やはりみんなこれを一番望みます。 ハーレムですから、スルタンは多くの女たちと夜な夜なエッチなことを・・・・と言うのがお決まりですが、しかしスルタンにも色々。生涯一人の女性を愛し続けた純情なスルタンもいれば、女たらしもいれば、と色々だったようです。そして、女たらしのスルタンがいると、当然スルタンの愛を求めてハーレムの女性たちはお互いに熾烈な抗争を繰り広げられたとか。 また、男の機能を取り去ったとしても元は男である宦官と許されぬ恋に落ちる女性など・・・・。ハーレムって怖いですな。 この後については、いずれ執筆する現代史シリーズで。 |