歴史研究所世界史・日本史レポート
第1回 フランシスコ=ザビエル 担当:村岡司浩・裏辺金好・馬藤炊爺・松戸合他・・

  
1.はじめに  我々徳山高校地理歴史部は、今回の文化祭にあたりサビエルについて調査することにしました。というのも我々は、彼について知っているようで、本当はよく知っていないのではと思ったからです。  
 「1549励めよ、キリスト教」我々はこのことば以外に彼のことを何か知っているでしょうか。サビエルが本当に我々に伝えようとしたのはキリスト教だけだったのでしょうか。彼から学べる歴史は、あの語呂合わせだけなのでしょうか。
 ちょうど今年はサビエル来日450周年(当時)です。この機会にみなさん、彼についてもう一度学んでみてはと思います。

         徳山高等学校地理歴史部

2.メディナ神父のお話  我々はサビエルのことを調査するにあたり、一人の人物に巡り会った。その方はフランシスコ・サビエルの姉の直系の子孫にあたる方で、現在徳山キリスト教会におられ、サビエルのことについて、講師をされているメディナ神父という方であった。我々は僭越ながら、やはり、サビエルと繋がる彼から話を聞かなければならないと思い、メディナ神父のいる教会を訪れた。以下は、メディナ神父の話である。

<サビエルの略年表裏話>
 まずはじめに、我々がサビエルのことについて具体的に話す前に、現在知られている年表には載っていない、また、過ちのあることを話していきたいと思います。

 サビエルは、1506年バスク地方のサビエル城に生まれたわけですが、彼の父は、ナバラ王国の総理大臣でした。彼が生まれた頃には、すでに彼の父親は60歳を越えています。

 1521年に兄達がスペインに対して反乱を起こし、それが失敗し兄達はスペインに捕まったわけですが、その時彼らは自分の城のシンボルである塔を自ら壊すという態度を見せ、スペイン忠誠を誓い、財産を戻されています。これは、略年表中では、サビエル城は破壊されたとなっていますが、実のところは城の一部分を自分達が壊したのです。また、スペインが塔を自ら壊すという態度だけで彼らを許したのは、やはり当時のスペイン自体結成されてまだ間もなく、大して組織力がなかったというのもありますが、彼らバスク地方の人達の絶対なる忠誠を知っていたからということもあったでしょうね。その証拠というわけではありませんが、今でもバスクの大多数の人達は政府に対してとても従順です。

 1525年、パリの大学への進学の時のエピソードですが、彼は哲学、といっても当時の哲学は今の哲学とは違い天文学や数学、科学などを学び、つまり全般的な知識を元に物事の考え方を学ぶという所で、当時の大学では、一番難関だったようです。その後彼は、神学のマスターとなるわけですが、ここで一つ、面白い話をしましょう。それは、入学試験のことです。当時、そこの大学では入学試験は二つあり、一つ目の試験の筆記では、2000人中、21番という結果だったのですが、二つ目の教官を接待するという試験の後では、総合なんと1位だったのです。これはおそらく、彼の家にある多大な財産のおかげだったのでしょう。

 その後サビエルは仲間とともにイエズス会を結成し、そこのポルトガル人の状況を改善するためにインドのゴアへ行きました。だから、ゴアへ行ったのは、インド人に対しての大体的な布教活動のためではなく、本来キリスト教徒であるポルトガル人のために行ったのでした。それに、インドでは、イスラム教に属する海の人々やユダヤ教を信じる人々が多くいたのでポルトガル人しか布教できなかったというのもあります。

 その後マラッカで日本人のヤジロウに会い、一年間ゴアに帰って教育した後、日本へ上陸しました。
 山口でセミナリオ(宗教・教養の学校、後にトルレスに委ねる)を作ったり、教養を広めたりしました。だから山口には教会には当時、教会はなかったということになります。このセミナリオは、後にトルレスに委ねられることになります。その後、こいう行動をとった後に、自分が受け取ることになっていた手紙を受け取るために、府内へ行きました。大友宋麟に会うためということもありましたが、本当のねらいは手紙の方にあったのです。しかしそこには手紙はなく、心配になった彼はゴアまでその手紙を取りに行くようになったのです。

 その後中国へ行く途中、病気のため死去しました。

<サビエルでの日本での布教態度>
 サビエルは日本で布教するにあたり「対話」を重視しました。これはイエズス会全体の方針でもありました。筋を通すことを重視し、知識のある人が尊敬された日本においてサビエルは何よりも対話を必要とし、実行したのです。例えば、日本の坊さんと信仰や神について語り合ったり、多くの大学(お寺のこと?)に行き、そこで日本人に問いかけ、思想を求めたりしました。またサビエルは、日本人をよく誉め、寛容を持って日本人に接しました。

 例えば、サビエルは日本人の「好奇心が強い」「素直で嘘を付かない」「悪人(泥棒)が少ない」「富より名誉のために働く」といった面を強化し、またそのことをポルトガルへの手紙の中にも書いています。日本を離れるときには、日本をポルトガルの植民地にしないように、ポルトガル王に頼んだり嘘の手紙を書いています。それだけ日本や日本人をよい国・民族だと思っていたのです。

 そして、自分達の思想と日本の思想が合わない時には、頭ごなしに否定するのではなく、ある程度認めていく形で対応しました。これは、平和的に布教するためでもありましたし、日本人の特徴をよりよく知り、落ち着いて付き合うことが大切だと考えていたからでもありました。日本の中でも地方によって多少の文化の違いがありましたが、それにも寛容を持って接しました。このような布教態度や、元々日本にはキリスト教を初めから嫌う者がいなかった、国内の言語がほぼ1つの民族であった、などという理由から、日本人への布教は(インドなどよりは)楽であったと思われます。

<サビエルが中国を目指したわけ>
 サビエルが日本での約2年半の滞在の後、中国で布教しようと中国に渡った理由としては、3つ考えられます。

 1つ目は、日本と中国の関係のためです。つまり、日本の文化はその多くが中国からきたものだし、空海や最澄のように中国で勉強してから日本にその教えを伝えた僧侶もたくさんいたということです。このように中国から日本へという流れがあったため、サビエルも中国が改宗すれば日本人も皆改宗するだろうという見込みを持っていたのです。

 2つ目は、日本でのサビエルも布教態度に見られるように、大学や知識者を巡って対話がしたかったということです。中国の方が日本より何倍も大きいし、文化も発達しているので、一層そういう思いが強かったと見られます。

 3つ目はパリ大学の学生をもっと多くアジアに連れてこさせるためです。そのためには、中国からシルクロードを通って知識を得ながらヨーロッパへ帰り、大学でそういう魅力的な話をすることが必要だったのです。

<イエズス会について>
 サビエルが学生時代に参加したイエズス会の結成の裏には、当時のヨーロッパの強い歴史的背景があります。その一つとして、レコンキスタ(国土再征服運動)があるでしょうね。

 レコンキスタというのは、十字軍による聖地奪回策が失敗に終わった後、イスラム教の支配により失われたスペインの領地を再び自分たちキリスト教徒の手に取り返すという動きです。実はこの動きに乗じて、国王フェルナンドはローマ教皇、フランス、イギリスと協力して武力で再び聖地の奪回を計画しました。しかし、この計画はフランスの裏切りによりついに実行には至りませんでした。(フランスはスペインがこれにより力を付け、ヨーロッパの中心になることをおそれたのでした。)

 これらつまり、武力を使ったことに対し反省をし、「武力でなく対話で解決を」を基本方針としたイエズス会がイグナチウス・ロヨラを代表に、パリの学生達によって結成されました。当初イエズス会は「聖地巡礼」を基本活動の一つに掲げていたが、オスマン=トルコとヨーロッパ側の商人とが対立して交易が無理であったため、この活動は中止せざるをえなかった。そこで彼らは、まだキリスト教を知らない地域に彼らの神のことを伝えるという海外布教にその重点を置いたのでした。

 イエズス会は、プロテスタントへの対抗の手段としてカトリックの信者が作ったと思われがちですが、それは結果的にそうなってしまっただけであって、前にも行ったようにパリの熱心な学生が聖地巡礼のために結成したのであります。 

 イエズス会には様々な国の人がおり、そのため、キリスト教に対する考え方もさまざまなものでした。イエズス会にとって海外布教は、このような違いによる内部の対立を防ぐ意味もありました。また、各国政府との関係は作らず、ローマ教皇にのみ従うという姿勢をとりました。

 ちなみに、アメリカにイエズス会の宣教師が行ったのは日本よりあとのことです。

 また、同時期にフランシスコ会というのも結成されています。

<イエズス会とフランシスコ会の違い>
イエズス会   フランシスコ会
学生 参加者 商人
神のことを伝える 海外布教の目的 ボランティア
自立を重視し、厳しい 布教姿勢 保護と優しさ
学問、教育を与える 何を人々に与えるか 物品を与える
 フランシスコ会はスペイン系カトリック教会の修道会の一つで、1209年イタリア・アッシージのフランチェスコが創立しました。活動した修道士の多くが金持ちの商人の人たちで、布教と言うよりは貧しい人々を助けるボランティア感覚で、民衆に優しく接し、ものを与えて洗礼を行うというやり方でした。

 そのため、実際の教義はあまり民衆には伝わりませんでした。ここが、教義を教養とともに厳しくしっかりと人々に伝えるイエズス会と根本的に異なるところでした。また、フランシスコ会は貿易という物質的欲望を先行させる布教態度でした。彼らの布教態度は民衆の集団教化を引き起こしましたが、当時の日本の指導者達には教義が伝わらず、煽動される民衆に対し危機感を持たせることになりました。そしてそのことが日本においてのキリスト教の禁教の原因となったのです。

<当時、他の国でのキリスト教の布教状態はどうだったのか>

 日本よりも急速にキリスト教が広まった国として、メキシコがあります。この国では、アステカ帝国に奴隷制と生け贄制のことで現地の人々は反発していました。そこで彼らは、スペイン人の進入をわざと助けるという行動に出ました。自分たちの恨むアステカ帝国よりもスペインの植民地となり彼らの支配を受ける方がましだと思ったのです。そして、その後アステカ人は進んでキリスト教に改宗しました。

以上が、メディナ神父にお聞きした話の内容をまとめたものである。 引き続き、次のページへ
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