歴史研究所世界史・日本史レポート
第1回 フランシスコ=ザビエル
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4.大航海時代とイエズス会進出  我々はお二方の話を聞いた後、一体イエズス会の真の狙いはどこにあったのかということについて疑問を持ち、独自に調査を行った。以下はその調査内容をまとめたものである。

<胡椒と救霊>
 ポルトガル王ジョアン三世は、その臣下が勇気と冒険とによって勝ち得た東洋の植民地を神の支配に移したいと願い、神父の東インド派遣をイエズス会に求めたのであった。神の支配とは現地の人々をキリスト教に改宗させて植民地支配の拡大と安定を図ることに目的があった。

 これは教義を世界に広げようとするイエズス会の活動目的と連携するものであり、「胡椒と救霊」と後の世に言われたように、キリスト教の布教と胡椒などの富の導入は、植民地政策の両翼をなすものであった。

 サビエルはゴアのポルトガル財務官に、「日本の金銀とヨーロッパの品物を交換すれば、多くの利益が得られるでありましょう。もし日本の国王がキリスト教に改宗すれば、ポルトガル王にとっては物質的な利益は著しいものになることと思います。」 という手紙を書いている。

 このようにサビエルは 日本で集めた情報を、布教戦略に利用すると同時に、ポルトガルの植民地政策のためゴアへ送った。ポルトガルから現地への旅費、生活費の全てを支給されていた宣教師達にとっては、布教とともにポルトガル王の期待に応える使命感も、常にあったようだ。しかし、サビエル個人は後に嘘の手紙(日本は貿易には不向きな国である)を書いたという行為に見られるように、植民地政策に相乗りして自分が、神の使徒としての崇高な目的を遂げようとすることに抵抗も感じていたのかもしれない。

<「潜在的植民地」日本>
 大航海時代の海外布教は、イエズス会をはじめとするカトリック教会が独自の立場で行ったわけではなかった。そこには、スペイン・ポルトガル両国王室の後援があった。しかもそれは、信仰心から起こった、任意の援助ではなく、政治、軍事的のためだけでもなく、ただ教会法に基づくものだった。この法によれば、諸侯(国王・貴族など)は自身の権利として、教会側の保護者としての地位を得ることにより聖職者を任命することができ、その代わりに諸侯は義務として教会を経済的に支え、カトリック信仰の宣布に全力を注ぐことが課されていたのである。

 これを海外への布教に適応したのが、布教保護権であった。大航海時代のスペイン・ポルトガルの海外進出の目的の一つは、レコンキスタや十字軍精神の延長からくる使命感に支えられていたといえる。しかしその布教が着実に行われた裏には、布教保護権による王室の援助があった。この海外の布教保護権とは、新たに発見された異教地域、つまり「布教予定地」のカトリック教会の保護者として、イベリア両国国王を据えたものであり、国王が、その教会運営に保護者として関与するのである。ということは、この保護権が適用される布教地が拡大していかないと、この制度は有効に機能して目的を果たすことができない。よって、ローマ法王は、イベリア(スペイン・ポルトガル)諸侯に布教保護権とともに、未知の世界に航海し、武力で切り開いてそこを奪い取り、植民地として支配し、そしてそこにおいて貿易等を行う独占的権限を与えた。このような世俗的事業がともなってはじめて布教保護権が成り立ったと言ってよい。

 その後、非キリスト教世界、つまり布教予定地を二分割し、その一半ずつについて、ポルトガル・スペインがそれぞれ布教保護に基づいて布教を独占的に進めること、及びその地域に対しては、それぞれの国が航海・征服・領有、そして貿易を独占的・正当に行ってよいということが、ローマ教皇の認可により定められた。このときには、日本がどちらの側に属するかは決められていなかったが、日本人の全く知らないところで、日本の領土的帰属が当時においてすでに論じられていたのであった。事実、東半球へのポルトガル・スペイン両国の進出が始まると、日本は両国のどちらの「もの」になるのかということで論議が戦わされることになった。ただし、これまでの地域のように、境界線で分割されたのではなく、各地における両国それぞれの実績と力関係が反映される形で処理されていった。

 1542年、中国船に乗ったポルトガル人が種子島に漂着してから40年間ほど、日本はポルトガルの貿易網のなかに包含され、カトリック布教に関しても、サビエルの来日の後ポルトガル系のイエズス会教会が増加の一途をたどった(もっともサビエルには日本はポルトガルの”布教地”であるという明確な意識はなかったと思うが)そしてこの布教実績の上に立って、ポルトガルの日本への布教保護権が法的に定められた。日本教会の保護者がポルトガル王になったということである。

 このことは、単に教会組織にとどまるのではなく、世俗的な部分、つまり征服・領有・貿易・なども含まれている。つまり、日本が潜在的なポルトガル領となったのである。この点を無視して、キリシタン史を「救い主への共通の愛によって結ばれた信徒の共同体である」教会の歴史としては、歴史の重要な一面が抜け落ちてしまう。

 この後、スペインも日本に目を付け、ポルトガル系のイエズス会とスペイン系のフランシスコ会の対立抗争が始まる。これを、布教にあたっての日本人への適応の仕方の違いによって生じた論争だと見る向きもあるが、実際には本国の政治的背景があったものだったといえる。

 根拠として、両教会の宣教師達が持っている日本布教の態度または目的が、スペイン・ポルトガルの勢力変化とともに、サビエルの生きた当時のものとは変わってしまったということがある。例を出すと、サビエル以後の日本布教の中心となった人物、アレッサンドロ・ヴァリニャーノはその手紙に「シナ、日本などのポルトガル国の征服に属する地域」といったような表現をよく使っている。 このことはスペイン系のフランシスコ会においても同じような例が多々見受けられる。

 また、17世紀頃のイエズス会の記録文書の中にある一文に「日本はポルトガルの征服に属しており、国王陛下はこれをポルトガル特権内に守ることを誓いました。それ故、国王は、日本など東アジアの征服地にスペイン人は行ってはならないというふうな勅令を発布した。」と記述されている。

 これらのことが示すことは、はじめサビエルらが目指していた、非キリスト教者の改宗によって彼らの精神を救い、全世界の平和を願った無償の保証のもとの崇高な行動が、時代が進むごとに、キリスト教者拡大という多大なる利益や、諸侯の介入による政治的手段の一つにつかわれ、当時の堕落したカトリック教会の一部分と成り下がってしまったということである。彼らにはその気はなかったかもしれないが、結果としてその大航海時代という流れの中に飲み込まれていったのであった。

5.終わりに  今回、一通りサビエルのことについて調べた後、私たちは時代というものの流れがどんなに巨大で、どんなに恐ろしいものなのかということを身にしみてわかりました。

 確かに彼らの行ったものは自己の良心の信ずるところによってだと思いますが、その時代が終わり、彼らの歩んだ道が歴史として記述される頃、その道は歴史としての体をなすため大きく歪められてしまいました。

 一体何が本当の歴史なのでしょうか。我々が思うに、歴史に虚言はないと思います。その虚言自体も、歴史そのものなのです。  我々はこれからも、その虚言以外の歴史の何かを探し続けていきたいと思います。
 最後になりましたが、今回の調査にあたり御協力くださった方々、特にヴィタリ−神父さんやメディナ神父さんに厚くお礼の言葉を申し上げます。

 1999年度徳山高等学校地理歴史部一同(現・裏辺研究所所員一同) 

 なお、今回のHP転載にあたり執筆者の名前は、ハンドルネームを使用しております。原版と違いますので、その点をご了承下さい。また、この原稿は前述の通り、その他のレポートと共に「発見新事実〜地理歴史部5年の歩み」という本・冊子にまとめ、2001年3月に自費出版という形で、出版させていただいております。。

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