第2次世界大戦〜終戦までの4ヶ月 序章3:東條内閣崩壊まで

担当:林梅雪
●今回の流れ  終戦までの4ヶ月。第3回目となる今回は、太平洋戦争勃発の1941年から、アメリカ軍によるサイパン島の陥落、それに伴う東條内閣崩壊までについて、ヨーロッパ戦線も視野に入れつつ解説していきたいと思います。

●敗退する日本軍
 開戦当初の日本軍の戦果はまずまずで、東南アジアや南太平洋地域へ順調に進撃します。しかし、日本海軍の連合艦隊が、1942年6月5日のミッドウェー海戦で大敗北を喫した後、戦局は逆転し、以後日本軍は一方的な敗退を重ねていきました。

 1943年2月1日、日本軍はガタルカナル島より撤退を開始、4月には山本五十六連合艦隊司令長官が、前線視察中にブーゲンビル島上空でアメリカ軍戦闘機に襲われ戦死します。

 山本はもともとアメリカとの開戦に反対でした。彼は開戦直前、近衛文麿首相に対し次のように述べています。
「アメリカとどうしても戦えといわれれば、はじめの半年から1年のあいだは、存分にあばれてごらんにいれましょう。しかし、2年、3年と戦いが長びけば、まったく確信がもてません。」

●ドイツとイタリアの侵攻  次に、この時期のヨーロッパに目を向けてみましょう。
 1941年12月に、モスクワを目の前に撤退したドイツ軍でしたが、翌1942年春、ドイツ軍は態勢を建て直し、再び攻勢に出て驚異的戦果を収めました。1942年後半には、ドイツ軍はスターリングラード(現・ボルゴグラード)の大部分を占拠。ヒトラーは敵の指導者の名前のついているこの都市を占拠することで、象徴的勝利を得ようとします。

 しかし、結果は歴史の示すとおりソ連軍の反撃と包囲により無残に敗北、ドイツ軍の第二次世界大戦中最大の敗北となります。この時、ヒトラーが無謀な死守命令を出したために、スターリングラードを防衛していたパウルス将軍率いる第6軍の9万1000人がソ連軍の捕虜となったのです。しかも、戦後生きて祖国に帰れた者はわずか6000人でした。

 一方、ドイツ軍に苦しめられていたソビエト連邦の指導者スターリンは、英米軍が西ヨーロッパに上陸することによって、ドイツに対する「第二戦線」を構築することを主張しました。しかし、未だにヨーロッパにおけるドイツ軍の強固さを確信していたイギリス首相チャーチルは、アフリカ戦線や「柔らかな下腹部」である弱小イタリアの攻撃に重点を置くことを主張します。

 つまり、多数の戦死者が予想されるドイツ軍との戦いはソ連に任せると言うことで、スターリンはこれに激怒し、イギリス不信を強め、驚いたことにドイツに対して(ドイツの敗北がほぼ決定的になった後も)秘かに和平提案をします。

 独ソ不可侵条約締結の立役者だったドイツの外相ヨアヒム・フォン・リッベントロープは、再びソ連との和平をヒトラーに求めますが、ヒトラーは「いいか、リッベントロープ。仮に今日ソ連と和平を結んだとしても、明日にはまたソ連は敵国となるのだ。それは仕方のないことだ」と述べ、頑として和平提案を拒否しました。

 さて、チャーチルが攻撃を主張したイタリアは、1930年代のエチオピア・アルバニア侵攻スペイン内戦で軍備を消耗し、戦争準備が全く出来ていませんでした。そのため第二次世界大戦勃発当初も、イタリアは中立的立場をとっていましたが、一方ドイツ軍は破竹の勢いでヨーロッパ各地に進撃します。

 そこで、イタリアの指導者ムッソリーニは後輩のヒトラーに遅れをとるまいとして、フランス降伏の直前に参戦。さらにイタリア軍はムッソリーニの古代ローマ帝国復活という野望の実現のため、北アフリカやギリシャに侵攻しましたが、どの戦線でもドイツ軍の協力なしに戦線を維持できない状況でした。

 1943年7月、連合軍はシチリア島に上陸、ローマでは政変が起こりムッソリーニはあっけなく失脚します。代わってバドリオ将軍が国王より組閣の大命を受け、間もなくイタリアは降伏、1ヵ月後には逆にドイツに宣戦布告します。ムッソリーニは失脚後に逮捕投獄されていましたが、ヒトラーの命によって助け出され、ドイツの傀儡政権であるイタリア社会共和国を樹立、その形式的元首となります。以後ムッソリーニは、実質上ヒトラーの操り人形と化し、1945年にその終焉をむかえるのでした。

●東條内閣の崩壊  さて、ここで話を日本に戻します。そもそも太平洋戦争における日本のスローガンは、「大東亜共栄圏」の構築、すなわちアジア人のアジアという崇高な理念を達成するというもので、この大義名分のもとに日本は大東亜戦争を遂行したのです。

 1943年戦況が悪化する中、東條(東条)英機首相満州国、中国占領地(汪兆銘政権)、フィリピン(旧米領、日本軍が占領→大東亜共栄圏の理念の下1943年独立)、タイ(日本軍が進駐、独立を維持)、ビルマ(旧英領、日本軍が占領→大東亜共栄圏の理念の下1943年独立)、自由インド仮政府(首班チャンドラ・ボース)の各国首脳を東京に集め、大東亜会議を開催しました。この会議の結果署名された「大東亜共同宣言」は、英米が発表した大西洋憲章を意識し、相互の自主独立の尊重、互恵による経済発展などを謳っています。

 東條内閣の商工大臣として入閣していた岸信介は、戦後首相となりますが、彼は自身が認めるように戦前、戦中、戦後に渡って一貫した理念を持っており、そのためこの大東亜共同宣言の理念は、岸内閣(以降)において形を変えて実現したともいうことができます。また戦時下においても、1944年3月、日本軍がインドをイギリスから独立させるためにインパール作戦を実行したという事実も看過してはならないと思います。

 そして1944年7月7日、サイパン島の日本軍守備隊が玉砕し全滅。これによりアメリカ軍爆撃機B29の日本各地への空襲が可能になりました。これを期に天皇の重臣達の東條倒閣運動が起きます。また閣内でも岸信介商工大臣と東條が対立、7月18日東條内閣は総辞職しました。

●インパール作戦と中村屋のカレー  インパール作戦について、当研究所の裏辺金好所長より追記をしておきます。

 当然、インドを独立させるのは戦略的な理由がありました。1つはチャンドラ・ボースに恩を売ること。もう1つは、この地からイギリスを撤退させることで、日本軍占領地へのイギリス軍の攻撃を無くすことです。さらにイギリスが撤退しないまでも、インドで独立運動が高まれば、イギリスはインドに戦力を割かなければならなくなり、イギリスVSドイツのミリタリーバランスもドイツに傾くという狙いがありました。

 先のチャンドラ・ボースも元々はドイツに亡命していたのですが、このためにドイツと日本は協力し、なんと互いの潜水艦をマダガスカルにまで派遣し、彼を引き渡すという荒技をやってのけました(ドイツ側がU80,日本側が伊29。当時の潜水艦でこの距離を行くというのは凄いこと)。で、このあと大東亜会議に出席し・・・、というわけです。

 しかし、インパール作戦は、蘆溝橋事件の際の現場の連隊長であった牟田口廉也(むたぐちれんや)中将が「盧溝橋で第一発を撃って戦争を起こしたのはわしだから、ワシがこの戦争の決着を付ける」という功名心に駆られたもので、険しい場所を進むことから、重い武器弾薬・・・すなわち強力な兵器は殆ど持たず、兵糧も殆ど無く、さらに補給計画も殆ど無し。

 厳しい行軍を見かねて、第31師団長・佐藤幸徳(こうとく)陸軍中将は作戦中止意見を出しましたが作戦は強行され、佐藤幸徳の軍は独断で撤退します(そのため更迭されます)。さらに第33師団長・柳田元三陸軍中将、第15師団長・山内正文陸軍中将も反対意見を出して更迭、左遷されます。

 結局、勝てるはずもなく7月に敗色濃厚になってついに撤退。しかも、イギリス・インド軍の追撃と栄養失調、さらに雨季による環境の悪化により、撤退の道には白骨死体が並び「白骨街道」とさえ呼ばれました。しかも、牟田口は責任を「佐藤幸徳が気が狂ったため」と押しつけ、軍事裁判で佐藤を狂人扱いとしてしまいました。

 さらに、これによって日本軍に協力していたアウン・サン将軍のビルマ軍が日本から寝返り、日本はビルマ(現・ミャンマー)も失うことになります。

 なお、インド独立に執念を燃やしたチャンドラ・ボースは、この作戦でインド国民軍を率いて従軍しますが、もちろん失敗。やむなく軍の再建に努めますが、各地から伝えられる日本の敗戦濃厚情報により日本に見切りを付けます。そして次のスポンサーとしてソ連に目を付け、移動を開始するのですが、台北で飛行機が離陸に失敗し、墜落し、大やけどを負って死亡しました。

 遺骨は東京都杉並区和田3丁目の蓮光寺にあり、インド独立の功績者の1人として、お墓にはインドからもネルー首相やインディラ・ガンジー首相が訪問しています。また、インパール作戦自体は敗北しましたが、作戦に協力したチャンドラ・ボースの部下に対するイギリスへの反逆の裁判を通じて、インドに独立の気運が大きく高まり(そのため被告人は無罪)、結果的にチャンドラ・ボースの目的は達成されたとも言えます。無謀な作戦で命を落とした日本の兵士たちも、多少はうかばれると言ったところでしょう。

 また、これが縁になったのでしょう。連合国が一方的に日本の罪を裁くために開いた悪名高い東京裁判では、インド代表のパール判事ただ一人だけが日本の無罪を主張しています。

 ちなみに余談ですが、このチャンドラ・ボースを日本に呼ぶように働きかけたのが、ビハリ・ボース(1886〜1944年)という人物。1915(大正4)年に日本に亡命した、インド独立運動家でしたが、日本のカレーを見て本場と違うことにビックリ。イギリス経由で伝わった、カレーとは呼べない”安い材料で作った貧相な”カレーだったんですね。

 そこで、中村屋主人・相馬愛蔵に恩返しをすることにします。その前に、恩とは何かというとイギリスが日本に、ビハリ・ボースの国外退去の圧力をかけていて、頭山満犬養毅らの著名人が反対するも日本政府も退去命令をかけます。しかし、この相馬愛蔵が彼を4ヶ月間匿ったのです。

 そのうち、日本政府もイギリスの強硬な態度を取るのに腹を立て、ビハリ・ボースを保護することに決定。んで、なんと相馬さんちの娘さんと結婚するという、親密な関係となります。そして昭和初め、中村屋が喫茶部開設を検討したとき、それならばと、ビハリ・ボースは本場インドカレーを伝えるのです。

 それが、新宿中村屋のカレーであります。・・・と、これじゃあカレー屋の主人ですが、このビハリ・ボースが日本政府の求めに応じて、インド国民軍を結成しています。1944年に病死し、息子も沖縄で戦死するという残念なことに。もう少し長生きすればインド独立も見られたのですが・・・。インド独立言えば、ガンディーが有名ですが、こうした人達のさきがけがあったことも忘れてはいけません。
 
 長くなりました。梅雪さん、追記しすぎて本当にご免なさい。

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