第2次世界大戦〜終戦までの4ヶ月 序章4:小磯内閣時代&ヒトラー暗殺未遂事件

担当:林梅雪
●今回の流れ  終戦までの4ヶ月。第4回目となる今回は、小磯内閣成立から総辞職までの経緯、並びにヒトラー暗殺未遂事件について解説していきたいと思います。長かった前段も今回が最後。次回よりついに本筋に入ります。

●小磯内閣による和平失敗  サイパン島陥落等悪化する戦況の中で、1944年7月東条内閣は総辞職します。そして、朝鮮総督だった小磯国昭が中央に呼び戻され首相となりました。

 小磯は陸軍出身、東条の人脈に属する人物であり、組閣後の施政方針演説で戦争継続の意思を明言します。そして小磯は組閣直後、戦争指導体制の強化を図り首相、外相、陸相、海相、参謀総長、軍令部総長からなる最高戦争指導会議を設置しました。

 内閣は交代しましたが、戦争終結の見通しは全くたたず、戦争継続の檄だけをとばす小磯のことを、世間はエンジンがかかりにくく、速度の遅い当時の自動車にちなんで、「木炭自動車」と呼ぶようになります。しかし世間の評判とは裏腹に、小磯内閣は組閣と同時に和平工作を密かに開始していました。これについては後述します。


 一方、サイパン島を攻略したアメリカ軍は、同地に飛行場を建設します。そこから飛び立つB29爆撃機により本土空襲が始まり、政府は児童を農村や山村に集団疎開させました。本土空襲は敗戦まで続き1945年3月10日には東京大空襲が行われます。

 また、1944年10月のレイテ沖海戦で、日本軍は「非常の措置」として敵航空母艦に飛行機もろとも突っ込む特攻作戦を初めて採用。この時は熟練搭乗員による特攻であったため、通常の攻撃方法より多大な戦果をあげました。この為、「特攻」は以後恒常的な攻撃方法として採用されましたが、残念ながら戦局を好転させることは出来ませんでした。

 こうして戦況が敗色濃厚になるなか、1945年2月14日、元首相で天皇の重臣の一人だった近衛文麿公爵が、昭和天皇に「近衛上奏文」を提出します。近衛は戦争継続が国体護持を危うくし、敗戦を期に共産主義革命がおこることを危惧。戦争継続意思の変更を天皇に迫りました。これに対し天皇は、「もう一度戦果を挙げてからでないと中々話しは難しいと思ふ」と述べ、この段階では戦争継続意思を崩そうとはしませんでした。

 さて、表向きの戦争継続意志とは裏腹に、実は小磯内閣も組閣と同時に重慶政府蒋介石政権)との和平工作を密かに開始します。小磯は南京政府汪兆銘政権、大東亜会議に出席)の政府高官繆斌(みょんひん)を仲介役にしようとしました(繆斌工作)が、重光 葵外相、杉山 元陸相、米内光政海相らが反対します。この閣内対立の結果、1945年4月5日に小磯内閣は総辞職するに至りました。

●ヒトラー暗殺計画  一方のヨーロッパ戦線では、ついに連合軍がヨーロッパ奪還に動き出します。1944年6月、連合軍はノルマンディー上陸作戦を計画、それに先立ち連合軍の上陸地点がどこであるかをドイツ側に特定させないために様々な工作を行い、ドイツ軍指導部を混乱させ、連合軍がカレーに上陸するのではないかという印象を与えます。

 しかしヒトラーは、驚くべき直感により連合軍がノルマンディーに上陸することを見抜きます。ただ彼は、ノルマンディーに上陸するのが主力部隊かどうかを判断しかね、ノルマンディーに思い切って大部隊を投入できずにいました。

 6月6日、連合軍はヒトラーの読み通りノルマンディーに上陸し、7月になりシェルブール港を陥落させます。この頃からようやくドイツ軍は、ノルマンディーへ部隊を転用し始めますが、もはやそれは遅すぎたのでした。

 こうしてドイツ軍の敗北が時間の問題になる中、事件は起こります。一部の軍人がヒトラー暗殺を企図したのです。ヒトラーを暗殺しようとする試みは、過去に少なからず行われていましたが、時間通り爆弾が破裂しなかったり、ヒトラーの日程が急遽変更になったりで、なかなか成功しませんでした。しかも1944年初頭までに、反ヒトラー分子の要人は逮捕、或いは解任によりほぼ一掃されます。国防軍諜報部に所属していた反ヒトラー分子の一人カナリス提督は、ヒトラーの日程を把握できる立場にありましたが解任されたため、反ヒトラー分子は情報の取得が困難になりました。

 ところが1944年7月1日、反ヒトラー分子の一人シュタウフェンベルク伯爵が、国内軍司令官であったフロム将軍の参謀長に任命されます。その結果シュタウフェンベルクは、総統司令部でヒトラーに近づくことができるようになりました。こうしてヒトラー暗殺計画が実行されます。

 1944年7月20日午後12時37分、シュタウフェンベルクは5分後に破裂する時限爆弾の入ったカバンを持って、総統司令部の会議室に入りました。報告に目を通しているヒトラーから4m弱のところに、シュタウフェンベルクはカバンを置き、「用事を思い出したので電話をかけてきます」と言い残し会議室から辞します。彼はそのまま車に飛び乗り、総統司令部を後にしました。

 12時42分、爆弾が破裂します。
 シュタウフェンベルクはヒトラー他、総統司令部にいた全員の死を確信し、そのままベルリンに向かいます。

 しかしヒトラーは重傷を負ったものの、奇跡的に助かっていました。爆弾破裂により総統司令部の窓と屋根は吹き飛び、数名が死亡、ヒトラーの頭髪にも火が燃えうつります。地獄の断末魔の中でヒトラーは、副官に対し「見てくれ、この制服は新調したばかりなのにこのざまだ」と虚勢をはって叫びました。

 夕方ベルリンに着いたシュタウフェンベルクは、ヒトラーが生きていることを知り驚きます。彼は自身にも嫌疑がかかることを恐れた上官のフロム将軍により、まもなく銃殺されました。実はこの日、ヒトラーはムッソリーニと会談する予定でした。ヒトラーは時間を遅らせたものの、予定通りムッソリーニと会談します。驚くムッソリーニに対しヒトラーは「神が守ってくれたのだ」と上機嫌で語ります。

 ほどなくして、ヒトラー暗殺計画に関与した人物がことごとく逮捕されました。国民的名声が高く「砂漠の狐」の異名をもつロンメル将軍は、この暗殺計画を知っていましたが、政治的な揉め事に巻き込まれるのを嫌い、関与はしませんでした。しかし、(恐らくヒトラーの意を受けた)将軍2人が、ロンメルを訪れ、裁判にかけられる可能性が高いことを告げます。まもなく不名誉を嫌うロンメルは、毒を仰ぎ自殺しました。ヒトラーは国民に対してロンメルは病死したと発表し、国葬を盛大に行いました。

 さて逮捕された被告達は、人民法廷でフライスラー裁判長による裁判を受けます。反ヒトラー分子を厳粛に裁けという上層部の意向があったにも関わらず、フライスラーは異常ともいえる熱狂さで被告を責め、怒鳴りちらし裁判を進行しました。それに対し被告達の態度はどこまでも冷静沈着で紳士的だったので、かえって被告達のまともさを強調する結果となり、裁判に関する報道はその多くが制限されることになります。

 いずれにせよ裁判は短期間で結審し、関係者は根こそぎ逮捕され銃殺或いはピアノ線での絞首刑に処せられました。ヒトラーは首謀者の処刑をビデオで記録させ、処刑シーンを家庭用映写機で夜を徹して見続けたといわれています。

 ヒトラー暗殺未遂事件以後、ヒトラーはますます疑心暗鬼に陥るようになり、一部の側近と、愛犬ブロンディしか信用しないようになりました。また、この暗殺未遂のショックからか、大量の薬物を服用していたためか、彼はパーキンソン氏病に侵され、左手が絶えず痙攣、いずれにしても10年は生きられない体となります。

 また、右手は暗殺未遂事件で負傷し左手は痙攣していたためろくに食事ができず、スープ等が軍服を汚してしまい、見るも無残な姿となり、一方喉もとで剃刀を使われるのも恐ろしくなり、髭も自ら剃るようになりましたが、手が痙攣するためうまく剃れず、無精ひげとなり、腰は曲がり、体臭はきつくなりました。晩年のヒトラーはまさに廃人同然であったといわれています。


棒