第2次世界大戦〜終戦までの4ヶ月 本筋4:戦艦大和撃沈&チャーチルの憂鬱

担当:林梅雪
●攻勢をかけるアメリカ
 今回は今まで御紹介した話の補足的な物となります。

 1945年4月1日、既に慶良間(けらま)諸島(沖縄県)を制圧しつつあった米軍は、この日、北側から沖縄本島に上陸します。南西諸島の守備を担当する日本の第32軍は、沖縄本島南部で戦闘を持久戦に持ち込む方針だったので、米軍は大した抵抗も受けず、飛行場などを制圧しました。

 これに対し沖縄の飛行場を本土空襲に使われることを恐れた大本営は、第32軍の方針を批判し、飛行場地域の再確保を要望します。天皇も梅津美治郎参謀総長に「現地軍は何故攻勢に出ぬか」と語り、不満を露にしました。

 それでも米軍が、第32軍の本格的防御地に到達する中、第32軍は善戦し、アメリカの南下を最小限に食い止めることに成功。また大本営の圧力に屈し、飛行場の奪回を試みますが、これは失敗に終わり、以後両軍とも一進一退を続けますが、次第にアメリカ軍が優勢となっていきます。

 そして4月5日、小磯内閣が総辞職。同日ソ連政府は、日ソ中立条約不延長を日本政府に通告。中立条約の期限は残り1年残っているものの、日本はソ連の対日参戦を意識せざるをえなくなります。

 4月7日、鈴木貫太郎内閣が成立。
 同日、沖縄戦に「海上特攻隊」として出撃した戦艦大和が九州南方で撃沈されます。戦艦大和は広島県呉市で建造され、1940(昭和15)年8月8日に進水した、世界随一の巨艦でしたが、艦隊決戦を意識されて製造されており、航空機対策などの欠如が見られ、最終的に特攻兵器として投入されるに至ったのでした。

 さらに4月11日、スペイン・ファシスト政権のフランコ将軍は日本政府に対日断交を通告。フランコはヒトラーからの参戦要求も見事回避し、ファシスト政権でありながら第二次世界大戦では中立を貫くことに成功します。そして4月13日には、チリが対日宣戦しました。

 (所長より)
 今年(平成17年)4月23日、広島県呉市に呉市海事歴史博物館(大和ミュージアム)が誕生。10分の1戦艦「大和」を始め、人間魚雷「回天」や零式艦上戦闘機62型、さらに現在の船に関する実物の展示棟も行われています。JR呉駅前という非常に交通の便の良い場所に誕生しますので、船に興味のある方にはお薦めの施設です。

●ムッソリーニの最期  ところで、日独伊のうち伊のイタリア。ムッソリーニはどうなったのでしょうか。
 彼は、イタリア降伏直前の1943年7月に失脚、投獄されていたのですが、ヒトラーにより救出され、まもなく北イタリアに於いてイタリア社会共和国を樹立します。しかし、これは実質的にドイツ軍の傀儡政権でした。

 その証拠に、ムッソリーニのガルダ湖畔の官邸にはドイツ軍将校が配置され、ムッソリーニの動きを絶えず監視していました。電話の盗聴なども行われたため、ムッソリーニと愛人クララ・ぺタッチは電話では、なんと100あまりの日本語の単語を使用していたと言われております。

 こうしてヒトラーにがんじがらめにされたムッソリーニでしたが、時の日本大使に個人的な書類を委託するなど、日本には最後まで信頼を寄せていました。日本側からも、潜水艦によるムッソリーニの日本渡航計画が発案されましたが、ムッソリーニは「好意は有り難いが、余はイタリアで最期を迎えたい」と述べたと伝えられています。

 そしてアメリカでトルーマンが大統領となり、さらに1945年4月25日、アメリカのサンフランシスコに50ヶ国の代表が集まり、連合国全体会議を開催。この会議では戦後世界の安全保障と、国際連合の創立が議題となります。すなわち、連合国は既に戦後を見据えて動き始めていたのです。

 実際、同日、米ソ両軍はドイツのエルベ川で出会い、ドイツ軍を分断(エルベの出会い)。さらにソ連軍は既にベルリン市内に突入しており、ナチスドイツの終焉は間近に迫りつつありました。

 このような状況の中、同年4月28日。
 既にヒトラーの操り人形と化していたイタリアのムッソリーニは、パルチザン(ゲリラ軍と同じ意味)に攻撃され、ドイツ軍と共にスイスへ逃亡する途中に捕らえられ、愛人のクララ・ぺタッチと共に銃殺されます。そして、なんと遺体はガソリンスタンドに逆さ吊りにされ、見世物にされるのでした。おや、イタリアで最期を迎えたいと言いながらスイスに逃げ出していたとは・・・。

 ところで、ムッソリーニはイギリスのチャーチルとも親交がありました。1920年代にチャーチルがイタリアを訪れたとき、二人は意気投合。チャーチルは最後までムッソリーニとの思い出を大切にし、回顧録でもあえて切り捨てることをしませんでした。

●チャーチルの憂鬱  ところで、そのチャーチル。
 世界が米ソの二大強国を中心に動き始めていた1945年元旦のことです。
 チャーチルは年賀状に「むかつくような新年」と書いていました。何故でしょうか。たしかに、連合国は勝利を収めつつあったのですが、イギリス経済はアメリカの援助なしには立ち行かなくなっていたのです。戦争終結と同様、大英帝国の終焉もまた間近に迫りつつあったことをチャーチルは肌で感じていたのです。

 またチャーチルは戦争末期、今ヒトラーが何をしているか考えることが多くなります。チャーチルは次のように述べています。
「ヒトラーは戦争末期、イギリスまで飛び、降伏した上で、こう言うことも出来たはずだ。
 『私はどうなっても構わないが、欺かれたドイツ国民は許してやって欲しい』
 と。」

 そして以前御紹介したように、1945年4月30日、つまりムッソリーニが銃殺されてから2日後。
 ヒトラーとその妻エヴァ・ブラウンが自殺します。ソ連の指導者スターリンはそれを聞き「ろくでもなしがくたばりやがった」と語り、イギリス首相チャーチルは「さて、ヒトラーはまことにふさわしい死に方をしたと、言わねばなるまい」と述べたと言われています。

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