第2次世界大戦〜終戦までの4ヶ月 本筋7:昭和天皇と和平工作

担当:林梅雪
●徹底抗戦への準備  終戦までの4ヶ月 本筋第7回目は、日本政府の対ソ和平工作と、それに至るまでの戦況を解説します。

 1945年になると米軍は日本本土に迫り、3月17日に硫黄島が陥落。4月1日には沖縄本島に上陸しました。沖縄での戦闘では当初、両軍とも一進一退を続けますが、5月4日の日本軍による攻勢の失敗により、沖縄戦の勝敗はほぼ明らかとなります。

 1945年に入ってから日本の戦争指導部は本土決戦の準備を進め、米軍の上陸に備えた沿岸防備強化や、信州松代大本営の建設に着手。なんと、天皇や政府は最悪の場合東京を放棄し、信州松代の壕にこもり、連合国側が天皇制の存続を認めるまで戦い続ける決意だったのです。

 日本側の読みどおり、米軍も1945年11月1日に北九州に上陸するオリンピック作戦、翌1946年3月1日に関東平野に上陸するコロネット作戦を準備していました。しかし、いざ日本本土に上陸するとなると、米軍の被害も多くなる。そこで、ルーズベルトはスターリンに対日参戦を強く要請します。

●鍵を握る昭和天皇  沖縄戦の勝敗がほぼ明らかになった5月7日、日本の同盟国ドイツが連合国側に対し無条件降伏しました(このシリーズでは何度も降伏しているように見えるなあ)。ドイツの降伏は、かなり前から予想されていたことでしたが、やはり日本政府にとってはショックであったことは間違いない。5月9日、日本政府は「ドイツが降伏しても日本の戦争目的は不変」との声明を出し、戦争終結の可能性を否定するも、この頃から天皇の心境に変化が生じます。

 天皇が戦争終結を躊躇していたのは、連合国による日本軍の全面武装解除、戦争責任者処罰という2つの問題でした。しかし、この頃から天皇はこれらの問題もやむを得ないと考えるようになり、天皇の側近で、明治維新の三傑の一人である木戸孝允の孫、木戸幸一内大臣も「最近お気持ちが変わつた。二つの問題も已む得ぬとのお気持ちになられた」と述べています。

 また、天皇が戦争終結の鍵を握ることは戦争指導層の中でも一致していました。近衛文麿公爵も「鈴木(貫太郎)総理、木戸内府(内大臣)がまとまり、それより陛下の御決断がつけば、仮に陸軍の反対あるとするも押し切れるに非ざるかとの底意なり」と述べています。

 ところで、上記の戦争責任者処罰に天皇が含まれるかどうかは、国体(天皇制)護持に関わる問題であり非常に重要でした。連合国側から国体護持の保障があれば和平OKだったのですが、連合国側にその意はありませんでした。だからこそ日本は戦争を終結できなかったのです。日本軍が絶望的な戦況でも戦いを続けたのは、敵に強力な一撃を加え、和平条件を有利にし、国体護持を連合国に保障させるためでした。しかし、日本側は強力な一撃を加えることが出来ず、ずるずると戦争を引き延ばす結果に終わってしまいます。

 近衛公爵も述べているように、特に陸軍は戦争継続と本土決戦に頑なでした。
 国民は勿論、政府内部でも陸軍の手前「降伏」などを口にすることはできなかったのです。

 しかし、天皇が戦争終結を望み始めて事態は少しずつ変化。「降伏」という言葉こそ禁句であるものの、「和平工作」は天皇の意志として水面下で慎重に論議され始めたのです。この外交によって日本は、国体護持を連合国側に求め速やかに戦争を終結させようと考えたのでした。

 こうして天皇の意を受け5月14日、秘密会議は戦争終結に向けての和平工作を決定。この時は具体的な検討はまだなされませんでしたが、当時中立条約を結んでいたソ連が交渉相手として最も適当であるとされます。ちなみに、ソ連は4月に日ソ中立条約の不延長を日本側に通告しており、日本側もソ連の対日参戦を意識せざるを得ませんでしたが、逆に言えば1946年4月までは条約の期限があるため、その間の参戦はあるまいという読みもありました。

 天皇は近衛公爵にソ連派遣特使への就任を要請し、和平工作への準備を着々と進行。

 前述のようにそのソ連は極東密約に従い、対日参戦準備を着々と進めつつありました。
 しかし、日本の指導部には、それは知る由もなかったのです。


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