第二十五話 西方より来たる原付ライダー
(原付ライダー列伝2 デジヲ伝2)

  デジヲとの出会いは・・・二十四話でも触れたように大学二年生の頃であった。当時、私は友人の玉麒麟と組んで同人誌サークルをやっていた。主に浜松のイベント(同人誌即売会)に参加していた。

 玉麒麟には高校時代の友人で、同人誌活動に詳しい友人がいた。彼はわれわれのサークルの運営にいろいろ助言してくれ協力してくれたが、サークル員ではなかった。彼もデジヲ伝にはしょっちゅうでてくるので名前を与えておきたい。彼に私は名曲「フォロワー」「アドルフ」(共にピエロというバンドの歌である)を教えていただいたので、アドルフと呼ばせていただく。フォロワーにするとフォロワー(追従者)という言葉を使うときに混乱をきたすのでアドルフのほうにした。


 デジヲと初めて出会ったのは浜松でのイベントの時だった。私と玉麒麟はサークル参加ということで、商品を陳列してお客さんを待った。アドルフも協力してくれていたが、彼は我々のサークルの手伝いをする一方でもう一つのサークルの手伝いもしていた。もう一つのサークルはアドルフの高校時代の友人ら(玉麒麟をのぞく)で構成されているようだった。実はそのサークル員の中にデジヲはいたのだ。ただ、この時、私はまだデジヲをしらなかった。


 ちなみに私と玉麒麟のサークルは主に格闘ゲームを扱っていたが、だんだんと美少女ゲーム関係も扱うようになってきてしまった。玉麒麟は元はギャルゲーを好んでやるようなやつではなかったのだが、アドルフの影響だか本人の素質だか知らないがだんだんとギャルゲーをやるようになり、一時はかなりの本数のソフトを所有していた頃もあった。ちなみに、最近は解脱してしまったのか、ギャルゲーを大いに放出してしまい、手元にはないようである(2004年5月現在)。


 そして、アドルフが援助していたもう一つのサークルは完全にギャルゲーサークルだった。この時、そのサークルではこの浜松でのイベントにむけて本を出していた。画集という扱いであり、彼らはもとより彼らの知り合いにもイラストの原稿を依頼して完成した本である。私もアドルフにせかされて一ページイラストを描いてくれといわれており、玉麒麟もアドルフから頼まれていたので玉麒麟に渡して一緒にそのサークルのもとへと送ってもらった。今思えば自分で適当に思いついて描いた絵だったが、人生の中でも一、二にはいるくらいの名作であったかに思える・・・。


 ちなみに、画集の編集作業はイベント前日にまで及んでいたという。本を製本するさいにはスタップラー(確かこういう名前だと思った)と呼ばれる、巨大ホッチキスを使用することがある。普通のホッチキスでは綴じることができないような枚数を綴じることができるのだが、だいたい30ページくらいが限界である(もちろんもっと厚いページを綴じれるやつもあるのだろうが)。当初はこのスタップラーで製本する予定だったらしいのだが、あまりの原稿の厚さに針が通らず、結局、パンチで穴をあけて紐を使って製本したというのだ。私と玉麒麟は原稿を依頼してかいていたので、その画集をただでいただくことがきたのだが、一般受けはしなかったようで全く売り上げはなかったようである・・・。今思えば、特にジャンルを絞ることなく、とりあえず原稿がいてだしてくれーといって原稿を集めたはいいものの、集まった原稿に統一性がなくて一体何の本なんだ? という状態になっていたと思う。ただ、仲間うちに配る本としてなら交流を深めるうえでも非常に意味はあったと思う。


 このデジヲの所属したサークルのメンバーは色々なところに住んでいたようである。しかし、基本的に浜松を中心とした静岡県西部地区に集中していたようなので、集まりにくくはなかったと思う。


 だが・・・、デジヲは名古屋に住んでいた。実家も浜松周辺ではない。そんなデジヲがこのサークルに加わるようになったのはアドルフの策謀・・・いや協力によるものだった。アドルフと玉麒麟には共通の友人がいたのだ。その友人のことは水滸伝の玉麒麟ロシュンギの手下である、「衛青」と呼ばせてもらう。

 衛青とデジヲは同じ名古屋の大学にいっており親しくなった。アドルフも名古屋の大学にいっていた(デジヲとは違う大学)。アドルフと衛青は同じ名古屋に住んでいるということで交流があったようで、衛青がデジヲをアドルフに紹介したのである。紹介のきっかけはギャルゲーが好きな友人がいるという紹介であったそうである。アドルフとデジヲは意気投合してしまい、同人活動にも興味を持っていたデジヲにアドルフが囁きかけ、このサークルに参加することになったそうである。


 そして、デジヲ伝説がこのサークルで参加したことで一つ誕生したのである。別に売れ筋の本をだしたとかという景気のいい話でなく、原付ライダー列伝にふさわしい伝説である。


 これが今回の肝であり、デジヲの価値観、行動様式の一端を知ることができるエピソードである。ある時アドルフは私と玉麒麟を前にして
「デジヲは原稿を届けるために袋井まで原付でいった。」
と漏らしたのである。


「え?」


私は戸惑いを覚えた。
「名古屋から袋井って・・・浜松から名古屋までだってだいたい100キロあるのに、さらに遠くまで!?」


 当時の私は袋井がどこにあるかピンと掴めていなかった。認識としては浜松の東側にあるといった程度である。名古屋から浜松まで約100キロ、浜松から袋井までは約40キロくらいあるだろう・・・。そこを原付で走り抜けたのである。原稿のためだけに・・・。この頃、私は原付にのっていなかったので、原付で280キロ走るということがどんなことか想像もつかなかった。時間がかかるだろうという認識はあったが、猛烈に疲れるという考えには及んでいなかったと思う。


「なんでまたそんな事を・・・。」
私は当然の問いをアドルフに投げかけた。
「電車代がもったいなかったんだってさ。」
 
 確かに名古屋から豊橋まで名古屋鉄道に乗ると1080円、豊橋から袋井まで東海道本線に乗ると950円になり、片道で2030円、往復で4000円以上かかってしまう。原付でいけば燃料代1200円くらいでいけるのではと思う。何でも原稿の提出期限ギリギリだったらしく速達で郵送しても間に合わないということで採った苦肉の策らしい(速達のほうが定形外とはいえ原付の燃料代より高くつくことはない)。


 しかし、トンでもないことをする人間もいたものである。その話を聞いて私はデジヲを根性の男だと思った。


 だが、後に彼と親しくなっていく過程でわかるのだが、彼は時間や労力よりも金を大事にする拝金主義者だったのである。ケチ臭いところも多々あるが、彼は投資するべきときには投資を怠らなかった。貯金が趣味というわけではなく金をつかわないですむところは使わないようにして、自分の欲しいものを買う時には思いっきり使おうという考えなのだ。彼は元々名古屋の人間ではないのだが、一点豪華主義を信条とする名古屋人的経済観念の持ち主だったのである・・・。


 この時私はデジヲの原付長距離移動はこのような非常事態であればこその緊急処置だと思っていたのだが、それが大きな間違いであることを後になって知るのであった。


 伝説はまだ始まったばかりである・・・。


棒