
第32回〜二束三文〜(6月6日’04)
このコンテンツの今の現実は…
口実
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気分
http://www109.sakura.ne.jp/~sh49/yns/
状況
http://www.max.hi-ho.ne.jp/mao_h/nhk/
…見逃してください
まぁ何か書こう書こうと思うとますます書けなくなるので、このくらいのスタンスが丁度良いくらいなのですよキャメローン。
以前小さな子どもと数週間だけ関わる機会があったが、最終日に一緒に遊んだ子どもから自分(その子ども)の名前が書かれた牛乳ビンの紙蓋をプレゼントされた。馬鹿げているかも知れないが、この紙蓋は子どもの、そして自分にとっての大切な宝物であると信じている。何物にも代え難い逸品。
臨床心理学を学んでいる自分の基本スタンスは「在るがまま」。如何に外的な付加物が付こうが、そのものはそのものであることに変わらない。そう考えると、価値の本質は自身がどう捉えたか、が結局全てなのかも知れない。いかに「名作」と銘打たれた小説や映画も、魅力を見いだせなければその人にとっての「名作」では無いのだし、逆に何らかの価値を見つければ、一般に駄作の評価を得ているものでもその人には「名作」となるのではないか。
よく例えるのが宝石を用いての例。確かに宝石は値段が高い(ピンキリあるが)。それ故の価値があると信じ込んでしまう。だが興味の無い人にとっては、例え数億円の宝石であっても、そこらに転がっている石ころと価値は変わらない。もしその人が刃物研ぎなら、宝石なんかより砥石のほうがよっぽど価値がある、と言い出すかも知れない。興味の無い人にはそれこそ「豚に真珠」の世界。
最近はよくこの作品は良いだの悪いだの言い争う光景を見るが、それは自身の感じ方なのだから、内にとどめておくだけで良いんじゃないか、と思ったりする。下手に批評なんかつけたりすると、それこそ変なステレオタイプを身に付けさせ、見いだせる価値も埋めてしまうかもしれない。確かに評価を与えるというのは重要ですが、ね
ひょっとしたら、「良い」「悪い」の二元論で判断するのは、そのもの自身が持つ価値、可能性を埋めてしまっているんじゃないかな…と、最近自分が「これは価値がある」と感じたS.E.N.S.のアルバムを聴きながらぼんやりそんなことを考えている今日此頃(所長注:お前、本当に好きだな、ソレ)