3.大連〜中山広場と日本時代の近代建築たち〜

 続きまして、旧ロシア人街から南へ歩き中山広場へ。ここからは、日本が大連を統治していた時代に建てられた建築を中心に散策していきます。というわけで、また歴史を少し解説しましょう。

 せっかくダーリニーという新たなる港を手に入れたロシア帝国でしたが、1904(明治37)年に日露戦争が勃発すると、なんとダーリニーまであっという間に日本軍に攻め込まれ、まさか防衛ラインを突破されると予測していなかったダーリニーのロシア人たちは慌てて撤収することに。日本軍は占領した清の領土内に軍政署を設置し、現地にある清の地方官憲や現地民の監視を行っていましたが、ダーリニーに設置された軍政署(青泥窪軍政署)は、この地の支配を最初から計画しており、ダーリニーを「大連」と改名。さらに、まずはロシア時代の都市計画を受け継ぎ、次いで新たな建築を次々と建設していくことになります。
 
 そして、1905(明治38)年9月、アメリカにおいてポーツマス条約が結ばれ、日本は大連や旅順を租借する権利を得たほか、東清鉄道の大連〜長春も譲渡されます。こうして、日本は満州地域を支配する第1歩を踏み出し、1906(明治39)年に大連、旅順周辺(関東州)を支配する機関として、関東都督府を設立。さらに、鉄道を基本として様々な事業を展開する、半官半民の南満州鉄道株式会社満鉄)が設立されます。

 最初はロシア人街に残された建物を使って関東都督府や満鉄が業務を開始しますが、ニコライフスカヤ広場を大広場と改名した上で、その周辺に次々と洋風の近代建築を建設し、そちらに移転を始めます。上写真のとおり、円形の広場で、ここに色々な建築が建ち並び、さらにここから放射状に延びる道路にも、満鉄本社など、様々な洋風建築を建築。さらに、街区別に越後町、播磨町、薩摩町、佐渡町などという名前を付けます。また、前ページでも登場した路面電車も整備を開始し、電気やガスの供給などのインフラを整備していきました。

 戦後、大広場は中山広場として改名されましたが、現在も周辺部を含めて日本時代の建築が残存しています。

旧、遼東ホテル(現、大連飯店)
 築:1930年 設計:横井謙介
 建築当初は6階建てのホテルで、1階は百貨店を併設し多くの客でにぎわいました。現在もホテルとして現役で使用。

旧、交通銀行大連支店(現、大連市商業銀行)
 築:1930年 設計:庄俊
 こちらは中国の建築家が設計した洋風建築。
旧、関東逓信局(現、中国郵政局)
 設計:松室重光
 中山広場に面した建築の1つ。同じく松室氏が設計した、旧大連市役所の向かい側に立っており、洋風建築ながらも唐破風や千鳥破風など和風の意匠を取り入れているのが特徴。(右上へ)
旧、関東逓信局(現、中国郵政局)
 別角度から。
 松室氏は関東都督府営繕課長として、満州へ渡る前に京都府の技師を務めており、伝統建築にかかわっていたことが、そうした和風テイストの洋風建築にこだわるきっかけになたとか。
旧、横浜正金銀行大連支店(現、中国銀行)
 築:1909年 設計:妻木頼黄(よりなか)&太田毅
 中山広場に面した建築の1つ。バロック式のドームを載せた壮大な近代建築で、横浜にある横浜正金銀行(現、神奈川県立博物館)も妻木頼黄の設計。
洋風建築?
 中山広場に面した建築の1つですが、これは日本時代の建築にイメージをあわせたもののようです。神殿風の入り口部分と周辺部分がアンバランス・・・。
旧大連民政(警察)署
(現、遼寧省対外貿易経済合作庁)

 築:1908年 設計:前田松韻
 中山広場に面した建築の1つで、当時の大広場で最初に新築された2階建ての煉瓦建築。近年、外観部を保存した上で奥に増築したようです。
旧、英国領事館
 
旧大連市役所(現、中国工商銀行)
 築:1920年 設計:松室重光
 中山広場に面した建築の1つでその代表格。前述した松室氏による設計で、大連の市制導入に伴い建築されたもの。中央の塔は祇園祭の山車がモチーフ。
旧大連市役所(現、中国工商銀行)
 複雑な構成になっており、細部にまでこだわったのが解ります。
旧、朝鮮銀行大連支店(現、中国人民銀行)
 築:1920年 設計:中村與資平
 中山広場に面した建築で、典型的なルネサンス様式の銀行建築。朝鮮銀行は、日本の支配下にあった朝鮮の中央銀行で、朝鮮銀行券を発行しており、日本銀行券と等価。ちなみに、満鉄社員の給与は朝鮮銀行券で支給されていたとか。
旧東洋拓殖大連支店(現、中国交通銀行渤海分行)
 設計:宗像主一
 中山広場で最後に立てられた日本時代の洋風建築で、設計者の宗像主一は中村與資平の弟子。外観はアメリカ風の商業ビル建築となっています。
旧大連ヤマトホテル(現、大連賓館)
 築:1914年 設計:太田毅(異説あり)
 中山広場に面した建築で、横浜正金銀行の向かい側に建つ、現在も現役のホテルにして、大連を代表するもの。起工から竣工まで4年の歳月がかかりました。
旧大連ヤマトホテル(現、大連賓館)
 色々と写真を掲載しておきますが、とにかく素晴らしい。こういう立派なホテルを眺めていると、日本も、帝國ホテルをしっかりと保存をして欲しかった・・・と思わずにはいられません。
旧大連ヤマトホテル(現、大連賓館)
 
旧大連ヤマトホテル(現、大連賓館)
 あえて一点だけ残念な点を述べると、やはり屋上に設置された画面・・・。まあ、それほど気にならないような気もしますが。
旧満鉄大連医院(現、大連大学附属中山医院)
 築:1925年
 中山広場から解放街(旧大連市役所とヤマトホテルの間の道)を少しだけ南へ行くと、満鉄が誇った東洋一の病院が現在も残っています。
 もともとはアメリカの建築会社であるフラー社が設計、建築を請け負いましたが、建築途中で契約を解除。どうやら、日本人、朝鮮人、中国人がまぜこぜの工事現場を管理しきれなくなったようで・・・。そのため、高岡久留公務所&長谷川組が後を受け継ぎ、最先端の設備を持つ総合病院が完成しました。
町並み
町並み
 
旧満鉄大連図書館(現、大連図書館魯迅路分館)
旧南満州鉄道本社(現、大連鉄道有限責任公司)
 魯迅路にあるもので、元々はロシア帝国が商業学校として建築した建物。旧ダーリニー市役所から移転してきた満鉄本社でしたが、ご覧のように複雑な建築の配置となっており、1933年には地上8階建てへの建替えの計画も。しかし、結局は実現することなく、そのまま現在まで鉄道の施設として使用されています。
旧南満州鉄道本社
 左写真では右側に位置する建物。
旧南満州鉄道本社
 上写真では奥に位置する建物。
旧南満州鉄道本社
 左上写真では左に位置する。
町並み
 
町並み
203系統路面電車
 
勝利橋付近にて
大連駅前
 というわけで、旧日本時代の建築を見ていきましたので、大連は古い町並みばかりなんだなあ・・・と思われたそこの貴方は、甘い!実際にはこのように大連駅前は再開発が行われ高層ビル街になっており、また郊外でも次々とレンガ造りの民家や雑居ビルが壊され、不思議な形の(個人的には好きですけど)高層ビルへ変貌中です。何でも惜しげもなくぶっ壊す日本とは異なり、立派な近代建築は保存していくようですが、それ以外については、早めの記録が無難です。
大連駅
 ここから瀋陽に向けて出発します。そのため、こちらも近代建築である大連駅の中へ入りましょう。
大連駅
 日本の場合、駅にいると次から次へと列車が出発するため、人の流れが活発ですが、中国の場合は列車本数が少ないため、このように列車を待つ人の数がすさまじい・・・。
大連駅ホーム
 写真左側の客車に乗って、瀋陽に向けて出発! 満員の客車に5時間近くも乗ることになり、所長は大幅に体力を消耗することになるとは、この時点では知る由も無い・・・。
車窓
 
車内
 もう少し綺麗に撮れているはずだったのですが・・・(笑)。車内は座席が向かい合わせになっているボックスシート。この写真は終点近くで撮ったので乗客は少ないですが、大連を出て当分の間は満員。身動きもあまりとれず、いやはや・・・。
 しかし、最後の1時間は寝台列車のごとく座席で寝転がった所長。瀋陽に着く5分前になっても夢の世界で、最初は
「所長、もうすぐ瀋陽だよ」
 と優しく起こそうとしたムスタファ所員の行為も完全に聞き逃し、とうとう
「おいて行くぞ、所長!」(バシッ!)
 と激しくぶん殴られてから、ようやく起き上がった情けない状況でございました。いや、表現には多少誇張はありますが、本当に何やっても、なかなか起きなかったそうで・・・。