22.ライデンを歩く



 さて、ライデン中央駅に到着。とりあえず、目の前にいたスプリンター(普通列車)用の車両を撮影。


 ライデン中央駅も非常にきれいな駅で、こうなるとアムステルダム中央駅が一番ショボイ・・・。


 こちらがライデン中央駅の外観。非常に現代的な建築です。


 現代的な駅舎の駅前は、昔ながらの町並みが広がっています。
 さて、ライデンについてここで少し。この街は、16世紀〜17世紀にかけて栄え、ネーデルラント諸州が1568年に、オラニエ公ウィレム1世を指導者に、当時オランダを支配していたスペインに対する反乱を起こすと、ライデンもこれに参加。1574年にはスペインによる5ヶ月にも及ぶ包囲攻撃を受けますが、これに勝ち抜き、ウィレム1世からの褒賞として、大学の設立を希望。

 こうして、ライデン大学が設立され、地場産業である織物産業と共にライデンの隆盛を支え、アムステルダムの次にオランダで大きな都市となりました。しかし、織物産業は17世紀後半から不振になり、今は大都会、という雰囲気ではなく、落ち着いた雰囲気の街といった感じです。


 さて、オランダを代表する光景の風車ですが、ライデン中央駅の近くで2つ見ることが出来ます。まずは、駅の東にある市立風車博物館。1743年に粉引き用として建てられたものです。


 羽は直径27m。内部を見学できるはずなのですが、年末だったこともあるのか、閉館30分前に来たからか、見学することはできませんでした。


 ちなみに敷地内には、こんな展示もありました。


 今度はライデン中央駅から南へ、プット風車というものを見学します。先ほどの風車とは形が全然違いますね。


 その目の前にあるのが、レンブラント橋。ライデンは、画家レンブラントの出身地なのです。


 レンブラント橋とブット風車の組み合わせは、なかなかの絶景。


 そして、レンブラント橋を渡るとレンブラント公園。


 その公園に隣接しているのが、レンブラントの生家跡です。


 そこから東へ歩くと、このような水風景に出会いまして。


 シーボルトが1832年〜37年に住んだ家を利用した、シーボルトハウスがあります。・・・と、その前にシーボルト(1796〜1866年)が何者かを紹介せねばなりますまい。彼は、フルネームでフィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルトという、ドイツの医師・博物学者です。

 東洋研究を志した彼は、オランダ王ウィレム1世の斡旋でオランダ領東インド陸軍病院の外科少佐となり、1822年9月に長崎の出島のオランダ商館医として赴任。さらに、1824年には出島の外に出島外に鳴滝塾を開設することができ、高野長英、二宮敬作、伊東玄朴などの蘭学者を育てます。

 一方、シーボルトは日本研究に励み、オランダ商館長(カピタン)に同行して江戸に行き、道中で日本の自然などを研究。さらに、蝦夷地や樺太など北方探査を行った最上徳内や、伊能忠敬の全国測量事業に参画し、彼の死後に「大日本沿海輿地全図」を高橋景保などと交流。日本に関するあらゆる知識や物品を収集します。

 そして1828年に帰国する際、先発した船が難破し、積み荷から日本地図が流失して江戸幕府に発覚。これを国外に持ち出したのは誰だ!高橋景保が贈ったもののようです!ということで、高橋景保は投獄され、獄死。シーボルトは国外追放となりますが、それでもシーボルトが収集した約2万5000点にも及ぶ日本コレクションは、このライデンの地で包括的かつ体系的に紹介され、西洋の人々にとって未知の国だった日本に対する、知識欲を掻き立てたのでした。

 ちなみにシーボルトは日本で楠本滝との間に娘・楠本イネ(日本初の女性産科医)をもうけた他、帰国後に別の女性との間に生まれたアレクサンダー・フォン・シーボルト、ハインリッヒ・フォン・シーボルト兄弟と共に1859年に再来日しています。シーボルトの息子たちは、その後は日本で活躍。

 アレクサンダーは幕末、徳川昭武(最後の将軍である徳川慶喜の弟)らのフランス派遣(パリ万国博覧会等の視察)に同行し、明治維新後は井上馨外務卿の特別秘書として活躍したほか、ハインリッヒは日本人女性と結婚し、日本の考古学でも活躍し、「考古学」という言葉を日本で初めて使用しています。

 ・・・おっと、シーボルトでこれだけ話が長くなってしまいました。そのくせ、時間の都合で見学しませんでした。
 ・・・スミマセン。


 それでは、今度は東南に進みます。こちらは、Stads Gehoorzaal という建物。


 そして、その南にある立派な建物は市庁舎です。


 ここから東と西に立派な教会があるので、まずは市庁舎の東に向かいますと、ホーグランツ教会。カリヨンの美しい音色がずっと響き渡っていました。年末大サービス、という感じでしょうか?


 そのすぐ近くにある城塞は、旧ライン川が新ライン川と合流する地点の高さ12mの丘に造られた円形の建物。1568年にオラニエ公ウィレム1世を筆頭に、ネーデルラント諸州はスペインに対する独立戦争を起こしますが、その中でライデンは1573年から1574年にスペイン軍に包囲されます。

 市民はこの城塞に立てこもり、激しい攻撃と飢えに耐え続け、ついに1574年10月3日に、スペイン軍を水攻めにして退却させることに成功。ライデンの人たちにとって、ここは記念すべき勝利の場所であり、またオランダ独立に多大なる貢献があったことから、その報奨としてウィレム1世から、ライデン大学を誘致してもらうのでした。


 今残っている規模では、正直、この小ささでよくスペイン軍の包囲に耐えたという感がありますが、ともあれ周辺の風景はよく見え、特に先ほどのホーグランツ教会は綺麗に撮影できます。


 もう日も暮れてきましたが、最後にホーグランツ教会と市役所を挟んで反対側にある、聖ピーテル教会を見ます。12世紀に創建された後、増改築を経て15世紀に現在の姿になりました。後期ゴシック様式の美しく、壮大な建築です。


 駅への帰路、市立風車博物館がライトアップされていたので撮影。


 ライデン中央駅も美しくライトアップ?それでは、アムステルダムに戻ります。


 ここで新年を迎えます。時折、雨が激しく降る状態であったため、若干出撃がためらわれましたが・・・。


 アムステルダム中央駅の近くで、打ち上がる花火の数々を見ます。昨年のローマでの正月は、爆竹やワインの瓶が飛び交う、凄まじい正月でしたが、オランダは朝から、ハーグでも、ライデンでも、爆竹が鳴りまくり、さながら銃撃戦が繰り広げられているような雰囲気。夜になっても変わらず、むしろ公式の(?)花火が打ち上げられて、ますますヒートアップ。


 一部で若者が騒ぐほかは、除夜の鐘を聴いて静かに新しい年を迎える日本でこれを行うと、社会問題化して新年からテレビや新聞が盛り上がりそうな感じ。


 こういうのがまさに、文化の違いなんでしょうね。どちらが良い、悪いと言う気はありません。ただ、こういう違いを楽しめるのは、まさに海外旅行の醍醐味だと思います。


 こうしてアムステルダムでの新年を迎えました。


 さて、正月は「あの」オランダを代表する風景を見に行きます。

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