佐倉城〜千葉県佐倉市〜
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○解説
佐倉城は天文年間(1532〜55年)、守護の千葉親胤(ちかたね)が立地の悪かった本佐倉城に代わる新たな居城として、一族の鹿島幹胤(みきたね)に、のちに彼にちなんで鹿島台と呼ばれる場所に築城をはじめさせたのが始まり。ところが千葉親胤は家臣に暗殺されてしまい、築城は中断。さらに戦国時代の天正年間(1573〜92年)、千葉邦胤(くにたね)が築城を再開させますが、これまた千葉邦胤が1585(天正13)年に暗殺されてしまい、また築城はストップしてしまいました。その後、千葉氏は豊臣秀吉の小田原攻めでは北条家傘下として戦ったため戦後に改易。佐倉周辺は徳川家のものとなり、1592(文禄元)年に松平忠吉(家康5男)が4万石で入封。1602(慶長7)年には水戸へ移封となった松平忠吉に代わって、松平忠輝(家康6男)、更に翌年には小笠原吉次、そして1610(慶長15)年に土井利勝が入封するなど、佐倉は江戸周辺の重要な拠点として、目まぐるしく城主は変わりますが譜代大名が城主となりました。なお、1746(永享3)年に堀田正亮(まさすけ)が城主となると、以後は明治まで堀田氏が代々城主を務めました。
現在の佐倉城を造ったのは土井利勝で、城は比較的簡素な造り。石垣も天守も無く、三層の櫓で代用しています。なお、明治維新後に建物は破却され、帝国陸軍歩兵第二、後に第五十七連隊(通称:佐倉連隊)の駐屯地となりました。戦後は国立歴史民俗博物館が建設され、これに合わせて遺構の復元などが行われています。
(写真&解説:裏辺金好)
○場所
○風景
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案内図
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水堀
石垣は無く、土塁で城を防御していました。
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田町門跡・愛宕坂
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臼杵磨崖仏
近くには臼杵磨崖仏のなかで、最も有名な古園石仏大日如来像仏13体の中心を成している大日如来像のレプリカが展示されています。
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国立歴史民俗博物館
佐倉城の椎木曲輪に建てられたもの。元々は武家屋敷などがありました。
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兵営の便所跡
連帯が使用した便所の跡が現在も残っています。
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二の門跡
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二の丸跡
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二の丸跡
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空堀
本丸と二の丸を隔てる空堀は、なかなかの迫力。
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一の門跡
二の丸から本丸への入り口
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本丸跡
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銅櫓跡
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天守閣跡
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堀田正睦像
幕末の老中として活躍した佐倉藩第5代藩主。蘭学を好み、藩内の人材育成に努めます。また、日米修好通商条約締結に向けて、孝明天皇の勅許を得るべく奮闘しますが失敗し辞職。また、将軍継嗣問題では徳川(一橋)慶喜を支持しますが、井伊直弼の前に敗北し隠居しました。
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タウンゼント・ハリス像