米子城〜鳥取県米子市〜
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○解説
米子城は応仁年間から文明年間(1467〜1487)頃に伯耆国守護、山名教之の配下である山名宗之によって築城されたと云われ、1524(大栄)年には尼子氏が奪取。その後は毛利家の吉川広家が領するところとなり、1591(天正19)年から新たに築城を開始します。しかし、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いの結果、吉川広家は岩国へ転封となり、代わって中村一忠が伯耆一国17万5000石を領し米子城へに拠り、初代米子藩主となりました。現在みられる米子城は、この中村一忠が城下町とともに整備したもので、1609(慶長14)年に中村一忠が急死した後は、加藤貞泰が6万石で入城するも1617(元和3)年に大洲へ転封。
そして、米子を含めた伯耆・因幡が全て鳥取藩の池田光政が領するところとなり、一族が城代として在城。さらに1632(寛永9)年に池田光政が岡山へ国替されると、従兄弟の池田光仲が鳥取藩主となり、米子城は明治維新まで家老の荒尾但馬家が城代として駐在しました。
さて、近世の米子城は中海に張り出した標高90.1mの湊山頂上の天守を中心にした平山城で、北の内膳丸、東の采女丸(うねめまる)を出丸とし、麓に二の丸、三の丸、御船手郭(おふなでぐるわ)を配し、その周囲に中海から水を引き込んだ内堀、外堀を設け、内堀と外堀の間には武家屋敷が置かれました。
湊山頂上には、四層五重の天守閣と四重櫓という大小2つの天守が設けられ、明治になって取り壊されるまで存続。鳥取藩の支城でありながら、これだけの天守を備えた城は珍しいものでした。上写真は、右に大天守台、左に副天守台を見たものです。
(撮影:裏辺金好)
○場所
○風景
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枡形門跡
二の丸の入り口で、城兵の集合場所。
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旧小原家長屋門
米子城代の荒尾家家臣、小原家の長屋門を城下から移築したもの。江戸時代中期の建築です。
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内膳丸
丸山に築かれた郭で、一の段郭、二の段郭の二段構成です。
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番所跡
本丸の番所がありました。
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鉄御門跡
天守を守るための鉄張りの堅固な門がありました。
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本丸
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天守閣の礎石
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本丸から北側を見る
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