旧伊藤博文金沢別邸/野島掩体壕〜神奈川県横浜市金沢区〜
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野島公園にある旧伊藤博文金沢別邸(上写真)は、1898(明治31)年に建築された伊藤博文の別荘。茅葺寄棟屋根の田舎風海浜別荘建築で、大正天皇や韓国皇太子の李垠(イ・ウン)など、皇族なども次々と訪れています。
金沢の地は古来から風光明媚な地として名高く、中でも旧伊藤博文金沢別邸にある野島は、江戸時代に歌川広重が描いた金沢八景の中で「野島夕照」(のじませきしょう)に描かれています。伊藤博文は当時、大磯の「滄浪閣」を本宅に、この別邸を使用していました。
伊藤博文が1909(明治42)年にハルビン駅で暗殺されると、この別邸は次男である伊藤文吉が所有し、1959(昭和34)年からは横浜市の所有に。1962(昭和37)年に玄関部分・湯殿部分が撤去されますが、2006(平成18)年に横浜市指定有形文化財に。現存しない部分を含め、修復と復元が進められ、2009(平成21)年から一般公開されています。
埋め立てや都市化が進み、かつての面影が失われた金沢の中で、当時の面影を残す貴重な建築です。
これとは別に、野島公園には太平洋戦争末期の1945(昭和20)年3月から6月にかけて、野島山を東西に貫通する形で造られた野島掩体壕(のじまえんたいごう)が残ります。
これは横須賀海軍航空隊の戦闘機を空襲から退避する目的で整備されたもので、通常の掩体壕は戦闘機1機を格納するのが一般的ですが、ここは何と約100機を収容できる大きさ(長さ260m×幅20m)で、現存する掩体壕では国内最大級です。一度も使用されることもなく終戦を迎え、内部は公開されていませんが、案内板が設置されています。併せてご紹介します。
(解説:裏辺金好)
○地図
○旧伊藤博文金沢別邸
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大正時代の旧伊藤博文金沢別邸。
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眺望のため、客間が海側に突き出しているのが特徴です。
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玄関
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台所
伊藤博文が来邸する際は、近くの料理屋に食事を注文することが多かったようです。時には逗子から料理人を招くこともあったとか。
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廊下
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客間
12畳と12.5畳の二間から成ります。
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客間(金屏風)
伊藤博文が1901(明治34)年に金沢の地で書いたもので、邸宅を管理していた松本房治氏に贈ったもの。
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ベルギーから輸入されたといわれる窓ガラス
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便所は3か所あり、客間等の便所は手洗いの水間を畳敷き、大小便所は板間でした。
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居間
伊藤博文の書斎、寝室として使用。8畳二間から成り、客間棟と同じく東と南側に内縁(うちえん)が廻ります。
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湯殿
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明治憲法草案(複製)
○野島掩体壕
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標高55mの野島山を東西にトンネル状に貫通しています。こちらは東側の出入口。
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中央部分はコンクリート壁ではなく素掘り壁です。
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こちらは南側の出入口