64回 東西に分裂するヨーロッパ
○分割統治されるドイツ
1945年8月、アメリカ、イギリス、ソビエト連邦はポツダム協定を結び、フランスを含めた4カ国でドイツを分割占領し、首都ベルリンも分割して管理し、民主化を進めていくことを決定。また、ドイツ中南部のニュルンベルクに国際軍事裁判所を設置し、ナチス=ドイツ関係者に対する軍事裁判を行い、戦争犯罪の追求が始まります。
一方、ドイツに占領されていたオーストリアも4カ国による共同管理、旧枢軸国のイタリア、ハンガリー、ブルガリア、ルーマニア、フィンランドは1947年2月に連合国とパリ講和条約が結ばれ、例えばイタリアは海外領土を放棄することになったほか、ルーマニアはソ連に対する賠償と軍備の制限などが取り決められました。
ちなみにイタリアでは1946年に国民投票が実施され、王政が廃止。共和制へと移行します。
また、東欧諸国はソ連の後押しを受けた共産党が政権を握り、ソ連の意向を受けた政権運営を開始。アメリカとソ連が対決姿勢を強める中、ヨーロッパは西側諸国の陣営と、東側諸国の陣営に分裂していきます。
○冷戦下のヨーロッパ
1947年3月、アメリカはギリシャやトルコが共産主義化しないよう、ソ連に対する封じ込め作戦(トルーマン・ドクトリン)を宣言し、両国への援助を活発に行います。さらに同年6月にはアメリカのマーシャル国務長官(1880〜1959年)がヨーロッパ経済復興援助計画(マーシャル・プラン)を発表。
これは、ヨーロッパが協力して長期の再建計画を立案すれば、アメリカは資金供与に応じることを表明したもので、これに呼応したイギリス、フランスなどヨーロッパ16カ国(のち18カ国)による、欧州経済協力機構(OEEC)が発足。これが、現在のEUにつながる欧州統合の第一歩といえるでしょう。また、1948年3月には、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクの5カ国で西ヨーロッパ連合条約が結ばれています。
一方で、ソ連は1949年1月に東欧6カ国との間に経済相互援助会議(コメコン/COMECON)を創設し、東欧諸国を囲い込みます。この6カ国とはソビエト、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアのことで、1月遅れでアルバニアも加わったほか、後に他の地域の社会主義国にも広がります。
○ベルリン封鎖!
さて、ドイツ国内は次第にアメリカ、イギリス、フランスの統治エリアと、ソ連の統治エリアの2つに分断されるようになり、1948年6月には米英仏の西側陣営管理地区で通貨改革を実施。ソ連はこれに反発して、ベルリンを封鎖し、西側管理地に入れないようにします。
これに対し英米仏は、空から生活必需品を輸送する作戦を展開し、1949年5月にソ連はベルリン封鎖を解きました。
そして同じ年に西側陣営の管理地区は、ボンを首都にするドイツ連邦共和国(いわゆる西ドイツ)として発足。首相には、キリスト教民主同盟という政党を主導するコンラート・アデナウアー(1876〜1967年)が就任。1963年まで長らく首相を務め、この間の1954年に西ドイツは主権を回復しています。
そして同じ年にソ連管理地は東ベルリンを首都にするドイツ民主共和国(東ドイツ)として成立が宣言されます。こちら、社会主義統一党による、事実上の一党独裁国家で(一応、いくつかの政党は存在は許されていました)、秘密警察である「国家保安省(シュタージ)」による国民の監視の徹底など、非常に暗い性格の国家です。
この1949年は他にも重要な出来事がありまして、4月には西側12カ国による北大西洋条約機構(NATO)が誕生します。ベルギー、カナダ、デンマーク、フランス、イギリス、アイスランド、イタリア、ルクセンブルク、オランダ、ノルウェー、ポルトガル、アメリカの12カ国からなる組織で、ソ連に対抗した安全保障機構です。
○戦後直ぐのイギリスとアイルランド
さて、第2次世界大戦に勝利したイギリス、そしてドイツから解放されたフランス。
イギリスでは、まだ日本が降伏する1ヶ月前の1945年7月の総選挙でチャーチル首相の保守党が敗北し、労働党が政権を獲得し、クレメント・アトリー(1883〜1967年)が首相となり、重要産業の国有化や社会福祉制度の充実に取り組みます。
首相を退いたチャーチルは、こうしたアトリー政権の政策を批判すると共に、翌年にアメリカで演説を行い、「鉄のカーテン」と表現してソ連を警戒すべきだと訴えます。また、後ほど紹介しますが、同年にはヨーロッパ合衆国構想を提唱しています。
それから、これまで触れてこなかったアイルランドについても、ちょっと見ておきましょう。
イギリスからの独立志向が強かったアイルランド島では、シン・フェーン党(アイルランド語で「我ら自身」を意味する民族主義政党)が伸張し、1919年1月に独立を宣言して、デ・バレラ(1882〜1975年)が大統領に就任。
しかしイギリスはこれを認めず、後にアイルランド共和国軍(IRA)と呼ばれる義勇軍と衝突。1921年7月に停戦に合意し、ベルファストを中心とする北部はイギリスに留め、その他の地域は1922年にアイルランド自由国として、イギリス連邦内の一国家として発足します。
1932年から共和党(フィアンナ・フォイル)が政権を握り、デ・バレラが首相となって、イギリスからの分離志向を強めていきます。そして、1937年に「主権をもつ独立民主国家」を宣言。新憲法の制定と国名をエールとします。第2次世界大戦では中立を保ち、デ・バレラは1948年に首相を退くと共に、1949年には現在のアイルランド共和国と国名を変え、イギリス連邦からの離脱を宣言しました。
ちなみにデ・バレラは、1951〜54、57〜59年にも首相を務め、さらに1959〜1973年までは大統領に就任。アイルランドの中枢で長らく活躍しました。一方、アイルランドと言えばIRAによるテロ活動が長らく続きます。基本的に、南北アイルランドの統一を目指しており、イギリスと対立を続けていましたが、イギリスのブレア政権時代の1999年に和平合意しています。
○フランスの動き
フランス解放の立役者となったド・ゴールは1945年8月26日にパリに帰還し、臨時政府首相となります。しかし、新憲法の制定に際して、彼が主張した強力な行政権は承認されず、首相を辞任。そして1946年10月に国民投票で新憲法が制定され、第4共和制がスタート。
マーシャル・プランの資金によって戦後復興が進められていくと共に、フランスは各地の植民地を次第に手放していくことになりますが、当初はフランスはこの動きに抵抗します。例えば、1946年〜1954年にかけてヴェトナムでホー=チ=ミン率いるヴェトナム民主共和国と戦争を行い、独立を認めようとしませんでした。
結局、1954年に大敗したことから、ジュネーブ休戦協定を結んでフランスは手を引きますが、この間にフランスがヴェトナム南部に樹立したヴェトナム国VSヴェトナム民主共和国の対立は、アメリカとソ連の対立に利用され、ヴェトナム戦争へと繋がります。
また、1956年にはアフリカでモロッコ、チュニジアが独立し、さらにアルジェリアで民族解放戦線(FLN)による独立闘争が展開し、対応に苦慮。「この植民地まで手放すのか!」と、アルジェリア独立に反対するフランス人植民者、現地の軍部は抗議し、ド・ゴールを首相とするよう本国に要求を突きつけます。
こうして第4共和制は崩壊し、フランス議会はド・ゴールに全権を委任。ド・ゴールは1958年9月に新たな憲法を国民投票で成立させ、大統領に就任しました(第5共和制)。新たな憲法では大統領の権限が非常に強いもので、議会の権限が以前よりも制約される内容でした。
こうして大統領になったド・ゴールは、なんとアルジェリアの自治を1959年に認めた上、1962年7月には独立も認めます。そして、他のフランス植民地の独立も認めていくのでした。当然、当初ドゴールに期待した勢力からは反発を買いますが、後の祭りとなるのでした。
○相次ぐ植民地の独立
このほかにも、これまで欧米が支配していた植民地は次々と独立していきます。
例えば、オランダが支配していた東インド諸島では、1945年8月にスカルノ(1901〜1970年)を大統領とするインドネシア共和国の成立が宣言。オランダはこれを認めず、再植民地化を試みますが、激しい抵抗と国際的な批難を前に断念。1949年に独立を認めました。
またイギリス支配下のマレー半島は、1957年にマラヤ連邦として独立。さらに1963年にイギリス領ボルネオと合同し、マレーシア連邦が成立します。ただし、マレー半島の先端は1965年にマレーシアから分離し、シンガポールとなっています。また、1947年にはインドとパキスタンが独立しています。
1950年5月9日、フランスのロベール・シューマン外相が欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)の創設を提唱。これが実現にこぎ着け、翌年にECECが発足しました。この組織は、フランス、西ドイツ、イタリア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクの6カ国が結成。当時の産業として重要だった、ライン川流域の石炭、鉄鋼の産業を6カ国みんなで利用し、利益を出そうという組織です。
そして1965年。ECSC外相会議が「メッシーナ宣言」を採択。欧州経済共同体(EEC)および欧州原子力共同体(EAEC=Euratom)の創設を決定
、これがEC(ヨーロッパ共同体)、さらにEU(ヨーロッパ連合)へ発展し、その中の組織になっていくのです。
| ●国際統合理論 |
・機能主義(ミトラニーらが提唱)・・・専門技術的な超国家的協力が発生、政府間主義=国益の優位性
・新機能主義(ハースらが提唱)・・・特定の部門から、結合の流れが波及(利益あるところから結合が起こる)、超国家主義受け入れ
結果として、この新機能主義が正解となったが、一時、ECの動きが停滞した時に、ハースは反省の論文を書いてしまった。
また、欧州について楽観主義、悲観主義が揺れ動いていきました。
| ●欧州の父「ジャン・モネ」 |
一方、欧州防衛共同体構想も出されます。これは、当時、朝鮮戦争など、東側陣営との戦いを見た欧州諸国が、超国家的な欧州軍を設立し、この中にドイツ軍を取り込むことにより、ドイツ軍の驚異も取り除きつつ東側から欧州を守ろうと考えたのです。ですが、主権が制限されると言うことで発案したはずのフランスが否決(フランスの主権制限に反対するド・ゴール派が原因)。
結局、「同盟軍」としてのNATO軍が結成されることになりました。また、農業共同体構想もありましたが、こちらも失敗。結局、欧州統合のスタートは、欧州石炭鉄鋼共同体ECSCだけとなりました。
| ●欧州統合理念の再出発 |
ですが、イギリスはEECの方がいいや、と加盟申請をします。
しかし、イギリスの加盟についてはフランスのド・ゴール大統領が強烈に反対し実現しません。つまり、フランスの影響力保持のためには、イギリスは入れたくなかったのです。なにしろ、イギリスのバックにはアメリカがついています。そして、EECは全会一致がルールだったので、フランスが反対すれば、イギリスは加盟できませんでした。
その後、ようやく1969年のハーグ首脳会議では、過渡期の完了確認、拡大と深化の方向性が打ち出されます。そして、ECが設立されました。イギリス、アイルランド、デンマークは1973年よりECに加盟します。
ですが70年代は停滞の10年とも言われ、通貨統合も先に進まず。75年、ベルギー首相チンデマンスは報告書の中でECの現状を痛烈に批判し、直接選挙制度による欧州議会の実現、全会一致という決定の制度の改革を求めました。
これが1980年代にはいると統合が再加速します。
1985年、単一欧州議定書結ばれ、人、物、サービス、資本の自由な移動が保証することに。これは1993年1月に完成しました。
また、1992年に結ばれたマーストリヒト条約で通貨統合に関する実施方法が決定。そして、EUが発足します。
また、1997年のアムステルダム条約は、簡単言ってしまえば、多数決でもオッケーにします。詳しく書きますと、マーストリヒト条約で定めた外交・安全保障、経済通貨、社会の三面統合が必ずしも期待されたように進んでいない情勢を受けて、過半数の国々の間で合意が成立すれば、これらの国の間でまず統合を実施しうることを明文化したこと、そして、共通外交・安保政策に関する意思決定については全会一致に配慮しながら、しかし多数決で共同行動を決めうること、さらにEUの法的性格を確認し、ヨーロッパ委員会とヨーロッパ委員長がこの権限を代表することを定めて、執行権力に法的裏付けを行い、EUの政治体制を固めました。
| ●ドローヅ委員長のリーダーシップ |
ドロール・システムとも言われる、ドロールを頂点とし、ラミールを官房長とした、トップダウン型のドロール組は、密室型のデモクラシーとも言われながらも、通貨統一などを勧めました。特にこの通貨統一。西ドイツのマルクが強くなっていたため、どうしても必要な政策でした。一方、西ドイツはドイツ統一を認めてもらいたかったので、両者の思惑は一致。
一方で、民主主義の赤字論も噴出します。
つまり、民主主義に乗っ取って、きちんとEUに加盟して良いか国民投票したノルウェーでは、議会は圧倒的にEU加盟はだったにも関わらず、国民投票で否決されてしまいます。きちんと民主主義の原則に従い、国民の声を聴くのが良いのか、早急に欧州統合を目指すべきなのか、難しいところです。
| ●EUの東方拡大 |
@安定した民主制度 A市場経済が機能していること Bアキ・コミュノテール(EU的な法律が整備され蓄積されているか)
C政治・経済・通貨統合目標への固着 です。
そうは言っても、この基準から漏れた国には不満が残る結果となりました。
