65回 ヨーロッパ統合−ECからEUへ

○欧州石炭鉄鋼共同体の発足

 さて、戦後のヨーロッパ各国の政治的な動きを見ていくと、キリがありませんので、途中にソ連崩壊前後のヨーロッパ情勢を交えつつ、基本的にヨーロッパ統合に向けた動きを中心にご紹介していきましょう。

 ヨーロッパは一つ。
 こう考える人は古来からいましたが、直接的に今のEUに結びつく動きが起こったのは1946年9月19日。イギリスのウィンストン・チャーチル元首相が、チューリッヒ開かれた会議ででヨーロッパ合衆国構想を提唱したことです。

 これは実現には繋がりませんでしたが、やはり実利的な話になると話は早い。1948年、アメリカが西側ヨーロッパを援助するマーシャルプランを実施する受け皿として、欧州経済協力機構(OEEC)が作られます。これが欧州統合の第一歩といえるでしょう。しかし、冷戦の幕開けでヨーロッパは東西に分裂し、さらにドイツとフランスは仲が悪い。

 そこで1950年5月9日、フランスのロベール・シューマン外相がとジャン・モネ(1888〜1979年)は、欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)の創設を提唱。これは、「西ドイツとフランスの石炭業や鉄鋼業を管理する共同機構を設立し、この機構に加盟した国で共同管理しよう!」という驚きのプランでした。

 資源の共同管理が出来れば対立も解消していくだろう、というこの理想。実際、ヨーロッパに強力な資源管理組織を作ることは、各国にとっても魅力的な話だったようで、フランスはもちろん、西ドイツ、ベルギー、イタリア、ルクセンブルグ、オランダも賛同し、ECSCが発足。ライン川流域の石炭、鉄鋼の産業を6カ国みんなで利用し、利益を出すことになりました。

○次は安全保障組織だ!

 それから同じく1950年、フランスの首相ルネ・プレヴァンが欧州防衛共同体構想を提唱します。

 これは、当時、朝鮮戦争など、東側陣営との戦いを見た欧州諸国が、超国家的な欧州軍を設立し、この中にドイツ軍を取り込むことにより、ドイツ軍の驚異も取り除きつつ東側から欧州を守ろうと考えたのです。ですが、主権が制限されると言うことで発案したはずのフランスが否決(フランスの主権制限に反対するド・ゴール派が原因)。

 結局、前回見たとおり安全保障機構としてNATOが結成されることになりました。また、農業共同体構想もありましたが、こちらも失敗。結局、欧州統合のスタートは、欧州石炭鉄鋼共同体ECSCだけとなりました。

○さらなる統合組織へ

 しかし、さらなる経済的統合への道が模索されていきます。
 そして1955年1月、ECSCの加盟6カ国による外相会議が「メッシーナ宣言」を採択。欧州経済共同体(EEC)および欧州原子力共同体(EAEC=Euratom)の創設を決定 。1957年3月に、この6カ国でEEC設立条約(第1ローマ条約)およびEAEC設立条約(第2ローマ条約)調印が行われ、両組織が発足しました。そして、加盟国内の貿易障壁撤廃や域外諸国からの輸入品に対する共通関税の設定、そして農業を管理、援助する共通農業政策を推進します。

 一方、イギリスなどEEC以外の西洋諸国7カ国(オーストリア、デンマーク、イギリス、ノルウェー、ポルトガル、スウェーデン、スイス)はEFTA(欧州自由貿易連合)を結成します。こちらも、密接な経済協力の促進を目的とし、1967年1月までに農産物をのぞくすべての製品に対する域内関税を撤廃します。

 ところが、イギリスはEECに加盟させてくれ!と申請をします。
 しかし、イギリスの加盟についてはフランスのド・ゴール大統領が強烈に反対し実現しませんでした。なにしろ、イギリスのバックにはアメリカがついています。このため、フランスの影響力保持のためには、イギリスは入れたくありませんでした。そして、EECは全会一致がルールだったので、フランスが反対すれば、イギリスは加盟できませんでした。

○ECの誕生

 1967年7月、EEC、ECSC、EURATOMの3組織はヨーロッパ共同体(EC)として統合します。そしてECの拡大に消極的だったド・ゴール政権が1969年4月に終わると、次のフランス大統領となったジョルジュ・ポンピドゥー(1911〜1974年)は、さらなるECの組織拡大を図ります。

 1969年12月にのハーグ首脳会議では、過渡期の完了確認、拡大と深化の方向性が打ち出され、イギリス、アイルランド、デンマークが1973年よりECに加盟します。しかし、1970年代は思ったほどECは深化しませんでした。

 例えば1970年、ルクセンブルグ首相の名を取ってウェルナー・プランと名付けられた、経済通貨同盟を段階的に達成するというプランが理事会と委員会に提出されますが、一行に先に進みません。75年、ベルギー首相チンデマンスは報告書の中でECの現状を痛烈に批判し、直接選挙制度による欧州議会の実現、全会一致という決定の制度の改革を求めました。

 統合が加速したのは、1980年代のことでした。まず1981年1月にギリシャがECに加盟します。
 さらに1986年1月に、スペインとポルトガルがECに加盟しました。

 また1980年代は、1985〜95年にEC(のちEU)の委員長をつとめた、フランスのドロールの主導によって単一市場化が推進されます。1985年6月には7カ年計画で、ヨーロッパ単一市場を達成することに合意し、さらに1987年に発効した単一ヨーロッパ議定書は、EC域内市場を「物、人、サービス、資本の自由な移動が保障された国境のない領域」と規定し、その完成を1992年末に設定しました。

 何だか難しい内容ですが、とにかくEC域内の経済活動がより自由になることを目指したわけです。

○EUの誕生

 そして1993年11月1日に、前年2月に結ばれたマーストリヒト条約が発効して、ヨーロッパ連合(EU)が発足します。これによってECはEUとしてさらに発展し、ヨーロッパ中央銀行の設立や単一通貨の導入が目指されます。さらに1995年3月には、シェンゲン協定が発効し、ベネルクス3国、スペイン、ドイツ、フランス、ポルトガルの間で旅券審査廃止。パスポートを見せることなく、自由に国境が移動できるようになりました。

 また、1997年6月にアムステルダム条約が結ばれます。
 詳しく書きますと、マーストリヒト条約で定めた外交・安全保障、経済通貨、社会の三面統合が必ずしも期待されたように進んでいない情勢を受けて、過半数の国々の間で合意が成立すれば、これらの国の間でまず統合を実施しうることを明文化。

 そして、共通外交・安保政策に関する意思決定については全会一致に配慮しながら、しかし多数決で共同行動を決めること、さらにEUの法的性格を確認し、ヨーロッパ委員会とヨーロッパ委員長がこの権限を代表することを定めて、執行権力に法的裏付けを行い、EUの政治体制を固めました。

○単一通貨「ユーロ」の導入

 1999年1月からは、イギリス、デンマーク、スウェーデン、ギリシャを除く11カ国で単一通貨「ユーロ」が導入。2002年1月から流通が始まり、異なる国が同じ通貨を使うようになります。ギリシャは2001年1月にユーロに参加しますが、これが2011年現在、ギリシャ経済の問題で大変なことになっているのは周知の通り。

 さらに、2004年5月1日にはチェコ、エストニア、キプロス、ラトヴィア、リトアニア、ハンガリー、マルタ、ポーランド、スロヴェニア、スロヴァキア、2007年1月1日にはブルガリアとルーマニア、2013年7月1日にはクロアチアが欧州連合に加盟がEUに加盟し、エリアは続々と拡大中です。

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