○基礎を作ったのはこの人だ!
 さて、マムルーク朝の基礎を作ったのが第5代のバイバルスです。前回で、モンゴル軍をやっつけた人物として紹介しましたね。彼は、スルタン・クトズを殺害し、スルタンの座を獲得します。
そして、モンゴルに滅ぼされたアッバース朝のカリフの後裔を首都カイロに招き、これを保護。こうすることで自分の宗教的権威を高めます。また、モンゴルがやっていたように道路の整備(駅伝制)を行い、要所にラクダ・馬を配置。こうすることで情報の伝達を容易にし、カイロ中心の中央集権体制を確立します。
そして彼は、シリアに残るアイユーブ朝勢力、イル・ハン国、十字軍と戦い、特に十字軍は彼の死後になりますが、1291年に190年ぶりにシリア・パレスティナ地域から追い出します。
○その後のマムルーク朝
 その後、14世紀初頭のナーシルの時代に最盛期をむかえますが、お決まりの後継者争いが発生。1382年、その内部抗争に乗じてバルクークが政権をにぎり、ブルジー朝を開きます。が、これもあいつぐ宮廷内の反乱、内乱、外国勢力で苦しみ、1517年、トルコのオスマン帝国のセリム1世によって滅ぼされてしまいました。
ちなみに、オスマン帝国の1州となったエジプトですが、結局はこの後もマムルークは実権を握り続けます。その後、ナポレオンと戦い敗北。ナポレオン後は、オスマン帝国に反乱を起こしますが大敗北を喫し、ついに勢力を失いました。
マムルーク朝の衰退の原因は、先ほど述べた反乱・内乱、外国勢力(ティムール帝国など)の他、ヨーロッパでも猛威を振るうことになるペスト。これに大流行が大きな痛手ででした。当然人口は激減します。さらに、マムルークは結構腐敗していて、しかも農民に対する圧政がひどかった。これでよくまあ、すぐに滅びなかったものです・・・・。
第26回 モンゴルを受け継げ!ティムールの大遠征
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