●バルカン諸国の共産化
一方バルカン方面にもソ連軍は快進撃を続けていました。バルカン諸国の共産化を恐れたチャーチルは、1944年10月モスクワに飛びスターリンと会談。各国の扱いについて論議します。
チャーチルはルーマニアはソ連の優先権90%、ギリシャはイギリスの優先権90%、ユーゴスラビアとハンガリーはソ連とイギリス50%ずつ、ブルガリアはソ連の優先権75%、と事細かに書いたメモをスターリンに渡します。チャーチルがこだわったのはギリシャ。ギリシャはインドへの地中海航路を確保する上で非常に重要な軍事的拠点であったからです。
しばしの時間の後、スターリンはそのメモに承認というように青鉛筆で線を引きチャーチルに返した。チャーチルは各国の運命を一枚のメモで簡単に決めてしまったことを後悔し、「このメモは破ってしまおう」と述べたが、スターリンは「いや、あなたが言い出したのだからあなたが持ってて下さい」と述べます。その結果、このメモは後にチャーチル著の「第二次世界大戦回顧録」に掲載され、チャーチルは、この著作によってノーベル文学賞を受賞しました。
そしてポーランド問題とは異なり、スターリンはこの協定を守り、ギリシャの共産党系パルチザンを見殺しにします。こうしてギリシャには親英政権の基盤が出来上がったのですが、それ以外の国は結局共産化していきます。
異なる民族で構成されるユーゴスラビア地域では1941年、ドイツの後押しを受けたクロアチア人のアンテ・パベリッチ将軍がクロアチア独立国を建国。そして、クロアチア人の天敵セルビア人は、ドイツの強制収容所をモデルに作られたヤセノバツ強制収容所で虐殺されます。
一方、ユーゴでドイツ抵抗運動を指揮したのが、共産党系パルチザンのヨシプ・チトー(1892〜1980年)でした。チトーはスターリンのお気に入り。スターリンは「自分の後継者はモロトフだが、欧州共産主義運動の盟主はチトー」みたいなことを遠まわしな表現で述べているぐらい信頼されています。
そして、大戦末期にはすべてのパルチザン勢力がチトーを中心に集結し、ドイツを追い払い、ユーゴスラビア連邦を形成。
クロアチアもその一共和国となっていきます。チトーは首相兼国防相に就任しました。
折角なのでもう少し先も解説しておきましょう。
こうして権力を握ったチトーは、スターリンのやり方はユーゴスラヴィアの実情に合わない、としてスターリンの承諾なしに独自の内政・外交政策を展開します。東ヨーロッパ全域を自分の支配下に置きたいスターリンは、この勝手な行動に激怒。1948年、ユーゴスラヴィアはコミンフォルム(共産党情報局、スターリン主導で1947年結成)から除名され、スターリンから破門されました。スターリンのチトーへの憎しみは年を経るごとに募り、かつてのライバル、トロツキー(1929年国外追放、1940年メキシコで暗殺)と同様、肉体的抹殺まで考えるようになります。
そこでスターリンは1953年2月下旬、チトー暗殺計画を熟考するよう命じますが、スターリン本人が翌3月に死亡したためこの計画は闇に葬られ、チトーは長寿を全う。1980年に87歳でその生涯を閉じています。
とまあ、随分と話がそれましたが・・・。
後にこのような流れとなる、スターリンによる東欧やバルカン半島支配が進められる中、レーニンが、そしてスターリンがヨーロッパの共産主義革命の震源地になることを望んだベルリンが陥落しました。ドイツは降伏し、ヤルタ協定に基づきドイツの東側半分と東ベルリンがスターリンの手に入るのです。
しかしこれで終わりではありませんでした。スターリンは、ヤルタ会談でルーズベルトと結んだ極東密約に従い、ソ連軍の極東への移動を開始させる。あろうことか、日本政府はそのソ連に和平の仲介を求めようとしていたのでした。
●オットー・ハプスブルクとチャーチル
ところで、ちょっと余談を。
時は遡って19世紀、東欧やバルカン半島を支配していたのはオーストリア・ハンガリー帝国のハプスブルク家でした。オーストリア・ハンガリー帝国はドイツ側に立って参戦し、1918年、第一次世界大戦終結の直前に崩壊してしまいます。
最後の皇帝カール1世は亡命の末、失意のうちに間もなく世を去りましたが、その息子のオットー・ハプスブルクはオーストリア・ハンガリー帝国の復活を企図し、第二次世界大戦中にイギリス首相チャーチルに支援を求めます。チャーチルはこれに共感し、イギリス議会とカナダ議会はこの構想を支持。しかし、その構想が実現することはありませんでした。しかも、オーストリアはかろうじて共産圏に入らなかったものの、東欧諸国とバルカン半島は、ソ連の鉄のカーテンの中に組み込まれたのです。
(所長注)
ちなみにオットー・ハプスブルク氏は1961年、オーストリア帝位継承権と旧帝室財産の請求権を放棄した上で、同国に忠誠の宣誓を行い帰国。また以前より欧州統合に尽力し、欧州連合議会議員を長く務めます。
さらに、その息子であるカール・ハプスブルク氏も欧州連合議員を務めているとか。ハプスブルク帝国復興は成りませんでしたが、今もその伝統を活かしてヨーロッパ全体のために仕事をなさっているようですね。ちなみに、オットー・ハプスブルク氏は1999年に来日しています。
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