第2次世界大戦〜終戦までの4ヶ月 本筋5:ソ連の動向〜東欧共産化への布石〜

担当:林梅雪
●ソ連の反撃  今回はソ連側から第2次世界大戦を見ていきましょう。
 何だか段々、終戦までの「4ヶ月」ではなくなっていますが・・・。

 スターリンの粛清によって赤軍の弱体化を招いていたソ連は、1941年6月22日にドイツの侵攻を受け、甚大な被害を被ります。このような厳しい戦いの末、1920年から23年に生まれたソ連の若者のうち、1945年まで生き残ったのはそのうちのわずか3パーセント。彼らは死んでいった仲間とともにソ連の英雄扱いとされ、生き残った者には一人残らず勲章が授与されました。

 そして、ドイツが大敗北を喫した1942年〜43年にかけてのスターリングラードの戦いで、ドイツの敗北はほぼ明らかに。ドイツはすべてを破壊しながら退却していきます。一方、ドイツ軍の残虐行為にドイツ占領下の人々が立ち上がります。西欧ではそれをレジスタンスといい、東欧ではパルチザンといいます。

 ヒトラーは、パルチザンがドイツ軍兵士を一人殺した場合、その村を根絶せよ、という恐ろしい命令を出していたのですが、スターリンはこれを知ると、なんとドイツ軍兵士に偽装させた工作員に村を焼き払わせ、パルチザンのより強い結束を煽るのです。

●ポーランドの共産化  ところでドイツ占領下にあったポーランドでは1943年,カチンの森でポーランド将兵の遺体が大量に発見されます。イギリスに亡命していたポーランド政府ロンドン亡命政権は、調査を赤十字に依頼しましたが、スターリンはこれを機に亡命政権との国交を断絶します。当然、この問題についてソ連側の組織した委員会は、虐殺がドイツの仕業であると結論し、ドイツ側委員会は全く逆の結論を出しました。

 これが有名な「カチンの森の虐殺」で、その真相は、1939年にスターリンの指示によって行われたものだったのです。スターリンの後継者達は、東欧諸国の離反を恐れてこのことを隠し続けましたが、1990年、ようやくゴルバチョフ書記長が虐殺を認め、謝罪しました。

 さて、亡命政権と国交を断絶したスターリンは、ポーランドのルブリンという町で共産党系組織、後のルブリン政権を発足させ、ポーランド亡命政権に対抗させます。ポーランドがロシア攻撃の道筋にあったという歴史的経緯もあり、スターリンはポーランドに関してはしつこく固執します。

 例えば、進展しない農業の集団化に業を煮やしたスターリンが、ポーランド共産党幹部のビエルト(後大統領)を呼びつけ、「この野郎、ポーランドで何をやってるんだ」と批判。冗談かと思って笑っているビエルトに、スターリンの側近のモロトフ外相が「この馬鹿、これは冗談ではない」といい、ビエルトが恐怖におののいたこともあったといわれます。

 さて、ポーランドでもパルチザンが組織され、亡命政権の指導の下、首都ワルシャワでも果敢な抵抗を試みます。スターリンは、モスクワ放送にラジオで「ポーランド人よ時が来た。立ち上がれ」と放送させ、パルチザンを鼓舞します。勢いに乗ったパルチザンは、ドイツ軍を追い詰めます。

 ところが!
 肝心のソ連軍はワルシャワを目前に武器を置き休憩に入るのです。

 孤立無援になったワルシャワを、ヒトラーはレンガ一つ残さず破壊せよと命令。
 命令は忠実に守られ、ワルシャワが徹底的に破壊されたのは有名な話です。

 英米はスターリンに、パルチザン援助を要望するが回答は得られませんでした。スターリンは鼓舞しておきながら、反骨精神旺盛でポーランド共産化に邪魔なパルチザンは、ドイツ軍に始末させようと考えていたのです。ことパルチザンへの扱いについて、ソ連とドイツは結託していたも同然でした。

 そしてソ連の赤軍が進撃を再開したのは、パルチザンがドイツ軍と停戦交渉に入ろうとしていた頃。ドイツ軍は堂々と進撃してきた赤軍に敗れ撤退します。そして赤軍の後には、NKVD(エヌカーベーデー、内務人民委員部=ソ連の秘密国家警察)とルブリン政権が手を携えやって来ます。

 そしてスターリンはポーランドの東側半分をソ連の領土にすることを求め、その代わり、ドイツの東側をポーランド領にしてもよいと述べます。この提案はヤルタ会談で英米にも承認され、現在のような領土になります。ドイツの首都ベルリンが、現在の国境線だとやけにドイツの東側にあるのもそのためです。

 一方、ロンドン亡命政権を支持する英首相チャーチルは、領土問題で譲る代わりに、ロンドン亡命政権をポーランドの政治に参画させることを要求。ヤルタ会談の日程の半分以上がポーランド問題に費やされた。スターリンもチャーチルも一歩も譲らず、結局米大統領F・ルーズベルトの仲介によって、戦後国民投票でいずれの政権にするか国民に決めさせることで決着しました。

 しかし1945年3月、ロンドンから帰国した亡命政権要人は逮捕され、スターリンはヤルタ会談での約束を反故にした。チャーチルは激怒したが、ルーズベルトは急死する直前まで「ソ連との問題は極力重大化しないように努めたい」と述べます。しかし後継大統領トルーマンは、ポーランド問題に対し断固とした処置を実行します。

●バルカン諸国の共産化  一方バルカン方面にもソ連軍は快進撃を続けていました。バルカン諸国の共産化を恐れたチャーチルは、1944年10月モスクワに飛びスターリンと会談。各国の扱いについて論議します。

 チャーチルはルーマニアはソ連の優先権90%、ギリシャはイギリスの優先権90%、ユーゴスラビアとハンガリーはソ連とイギリス50%ずつ、ブルガリアはソ連の優先権75%、と事細かに書いたメモをスターリンに渡します。チャーチルがこだわったのはギリシャ。ギリシャはインドへの地中海航路を確保する上で非常に重要な軍事的拠点であったからです。

 しばしの時間の後、スターリンはそのメモに承認というように青鉛筆で線を引きチャーチルに返した。チャーチルは各国の運命を一枚のメモで簡単に決めてしまったことを後悔し、「このメモは破ってしまおう」と述べたが、スターリンは「いや、あなたが言い出したのだからあなたが持ってて下さい」と述べます。その結果、このメモは後にチャーチル著の「第二次世界大戦回顧録」に掲載され、チャーチルは、この著作によってノーベル文学賞を受賞しました。

 そしてポーランド問題とは異なり、スターリンはこの協定を守り、ギリシャの共産党系パルチザンを見殺しにします。こうしてギリシャには親英政権の基盤が出来上がったのですが、それ以外の国は結局共産化していきます。

 異なる民族で構成されるユーゴスラビア地域では1941年、ドイツの後押しを受けたクロアチア人のアンテ・パベリッチ将軍がクロアチア独立国を建国。そして、クロアチア人の天敵セルビア人は、ドイツの強制収容所をモデルに作られたヤセノバツ強制収容所で虐殺されます。

 一方、ユーゴでドイツ抵抗運動を指揮したのが、共産党系パルチザンのヨシプ・チトー(1892〜1980年)でした。チトーはスターリンのお気に入り。スターリンは「自分の後継者はモロトフだが、欧州共産主義運動の盟主はチトー」みたいなことを遠まわしな表現で述べているぐらい信頼されています。

 そして、大戦末期にはすべてのパルチザン勢力がチトーを中心に集結し、ドイツを追い払い、ユーゴスラビア連邦を形成。
 クロアチアもその一共和国となっていきます。チトーは首相兼国防相に就任しました。

 折角なのでもう少し先も解説しておきましょう。

 こうして権力を握ったチトーは、スターリンのやり方はユーゴスラヴィアの実情に合わない、としてスターリンの承諾なしに独自の内政・外交政策を展開します。東ヨーロッパ全域を自分の支配下に置きたいスターリンは、この勝手な行動に激怒。1948年、ユーゴスラヴィアはコミンフォルム(共産党情報局、スターリン主導で1947年結成)から除名され、スターリンから破門されました。スターリンのチトーへの憎しみは年を経るごとに募り、かつてのライバル、トロツキー(1929年国外追放、1940年メキシコで暗殺)と同様、肉体的抹殺まで考えるようになります。

 そこでスターリンは1953年2月下旬、チトー暗殺計画を熟考するよう命じますが、スターリン本人が翌3月に死亡したためこの計画は闇に葬られ、チトーは長寿を全う。1980年に87歳でその生涯を閉じています。

 とまあ、随分と話がそれましたが・・・。 
 後にこのような流れとなる、スターリンによる東欧やバルカン半島支配が進められる中、レーニンが、そしてスターリンがヨーロッパの共産主義革命の震源地になることを望んだベルリンが陥落しました。ドイツは降伏し、ヤルタ協定に基づきドイツの東側半分と東ベルリンがスターリンの手に入るのです。

 しかしこれで終わりではありませんでした。スターリンは、ヤルタ会談でルーズベルトと結んだ極東密約に従い、ソ連軍の極東への移動を開始させる。あろうことか、日本政府はそのソ連に和平の仲介を求めようとしていたのでした。

●オットー・ハプスブルクとチャーチル  ところで、ちょっと余談を。
 時は遡って19世紀、東欧やバルカン半島を支配していたのはオーストリア・ハンガリー帝国のハプスブルク家でした。オーストリア・ハンガリー帝国はドイツ側に立って参戦し、1918年、第一次世界大戦終結の直前に崩壊してしまいます。

 最後の皇帝カール1世は亡命の末、失意のうちに間もなく世を去りましたが、その息子のオットー・ハプスブルクはオーストリア・ハンガリー帝国の復活を企図し、第二次世界大戦中にイギリス首相チャーチルに支援を求めます。チャーチルはこれに共感し、イギリス議会とカナダ議会はこの構想を支持。しかし、その構想が実現することはありませんでした。しかも、オーストリアはかろうじて共産圏に入らなかったものの、東欧諸国とバルカン半島は、ソ連の鉄のカーテンの中に組み込まれたのです。

 (所長注)
 ちなみにオットー・ハプスブルク氏は1961年、オーストリア帝位継承権と旧帝室財産の請求権を放棄した上で、同国に忠誠の宣誓を行い帰国。また以前より欧州統合に尽力し、欧州連合議会議員を長く務めます。

 さらに、その息子であるカール・ハプスブルク氏も欧州連合議員を務めているとか。ハプスブルク帝国復興は成りませんでしたが、今もその伝統を活かしてヨーロッパ全体のために仕事をなさっているようですね。ちなみに、オットー・ハプスブルク氏は1999年に来日しています。


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