日本の旅 第57回
掛川城とその周辺〜静岡県掛川市〜

     A trip of Japan No.57 Kakegawa Castle (Kakegawa City)
○掛川市の概要
古代からの東海道の要衛。静岡県南西部の商工業都市。赤石山脈南縁部と南の小笠山丘陵の間の小盆地を占める。江戸時代は城下町・宿場町として栄え、1954(昭和29)年に市制施行。面積は185.79km2。人口は約8万人(2003年)。 全国一の茶の産地でもある。

1.掛川駅
 さて、今回は静岡県の掛川。そして次のページでは浜松を見ていきます。朝7時17分品川発の普通電車にゆられ、途中、静岡で乗り換えまして、11時ごろに到着しましたる次第。いやあ、良くまあ飽きずに鈍行に乗ったもんです。

 掛川駅というのが面白い駅でして、在来線側・掛川城側の駅が、小さな木造、しかし意外と重厚で趣のある駅となっていて、反対側の新幹線側が、近代的なデザインで、美術館の入り口みたいな感じになっています。ちなみに、在来線側の横には天竜浜名湖鉄道の掛川駅がコンクリート造りで併設されています。

 ちなみに「この駅舎、ただ者ではないな・・・(笑)」と調べましたところ、掛川駅在来線口は1940(昭和15)年の建築。よく今まで残してくれています。素晴らしい!

2.掛川城の歴史

掛川城の天守閣(木造で復元)

太鼓櫓。市指定文化財で、元々は掛川市役所近くの高台にあった。

大手門

大手門番所

武器庫
  掛川駅から真っ直ぐ大通りを歩いて10分の所にある掛川城。
 応永年間(1394〜1427年)に、地元の豪族・鶴見氏が築城したのがはじまりで、1469(文明元)年、駿河国を支配する大名・今川義忠が、家臣の朝比奈泰煕(あさひな やすひろ)に本格的に築城させたのが、今の掛川城の前身です。

 その後、今川氏は徳川家によって滅ぼされ、泰煕から3代後の泰朝も城を明け渡し、掛川城は徳川家の重臣・石川家成の手に渡ります。

 その徳川家康も、豊臣秀吉によって江戸・関東へ。かわって、ここには妻の内助の功で有名な山内一豊が入城。今の掛川の街を整備しました。関ヶ原の合戦以降、山内一豊は加増され、高知へ転封され、掛川城はそれから徳川家譜代の家臣が次から次へと配置・転封されてきます。面倒なので細かくは書きません。

 最終的には、1746年、江戸城を築城した太田道灌の子孫・太田資俊(すけとし)が入城すると、以後は明治維新まで7代続くことになります。

2.掛川城の建築を見る
 掛川城は、全国的に見て川越城(埼玉県)や二条城、高知城にしか残っていない、藩主の住居である二の丸御殿が残っている事で極めて資料的価値の高い城です。その他、太鼓櫓大手門番所も残っています。特に大手門番所は、城内に出入りする者の監視をする役人の詰め所のことですが、この種の建物が遺っているのは全国的にも珍しいそうです。

 天守閣は、1854(嘉永7)年の大地震で被害を受け、取り壊され、長らく天守閣のない状態が続いたのですが、1990(平成2)年8月から1993(平成5)年8月にかけて、木造で復元されました。

 山内一豊が築城した頃の天守閣を再現し、数々の絵図や、彼が転封した高知城天守閣を参考に、宮上茂隆工学博士の考証に基づき造られました。

 ・・・ということは、あくまでも「推測」に基づく模擬天守閣なのですが、それでも、この「木造」で城を復元するというのは画期的な試みで、これ以後、城の復元の多くが木造で行われることになります。

 また、同時に大手門も全国で初めて復元されています(区画整理事業により、当時の場所よりは南に50m移動)。こちらは、実物が静岡県袋井市の油山寺に移築されていますので、おそらく正確な復元としたものでしょう。

 それから、意外と見落としがちなのは、武器庫
 まあ、ご覧の通り、ちょっと原型を多く失っています。現在は、公民館として使用されているとか。あくまで説明書きの看板を作った頃の話なので、今は解りませんが。

 折角残っているんです。きちんと整備して欲しい物ですね。それから、竹之丸という領域があり、こちらにも古い屋敷が建っています。掛川城の城代家老太田家の屋敷であった場所で、城の北を守る曲輪(くるわ)として、北側に城中防護の竹の大薮があったところから竹の丸と呼ばれたと言われています。

 現在の建物は、明治以後になってから豪商の松本氏に売却された後に建て替えられた建物だとかで、江戸時代の物にないにせよ、近代建築としてみる価値ありです。昭和11年に掛川市に寄贈され、現在は柔道や剣道の場として市民に提供されている他、掛川市役所職員の厚生施設になっています。 


4.重要文化財・掛川城二の丸御殿
 前述のように、掛川城には二の丸御殿が残ります。掛川城に来たら、これは必ず見ておかなければなりません。この御殿は藩主の住まい、それから公務も行った場所です。なお、誤解の無いように書いておきますが、基本的に藩主はこうした御殿で生活し、天守閣に登ることなんかは、滅多なことがない限りありませんでした。

4.二宮尊徳関連建築
 掛川は、道徳と経済の調和実行を説き、生活の勤倹と、最新の農業技術指導によって農民の救済を図った二宮尊徳(金次郎)ゆかりの地の1つ。二宮尊徳死後、彼の教えを全国に広める「報徳運動」がグループが門人達によって開始されました。

 そのための大日本報徳社が結成されたのですが、その本社が掛川城に隣接してあります(左写真1枚目 大講堂)。これは1903年(明治36)年に造られた建物で、更にその隣には、大日本報徳社・社長岡田良一郎の功績をたたえ、1927(昭和2)年に竣工された図書館「淡山翁記念報徳図書館」も残っています。

 こちらは和洋の要素を見事に取り入れたデザインとRC造が特徴で、平成13年に静岡県指定有形文化財に指定されています(左写真2枚目)。

 左写真3枚目は、大日本報徳社本社に殆ど隣接するがごとく存在する木造の建築物です。仰徳記念館及び仰徳学寮といいます。

 これは1940(昭和15)年の皇紀2600年記念事業として、当時の社長一木喜徳郎(内務大臣、宮内大臣等を歴任)の尽力で、1894(明治17)年、有栖川宮熾仁親王邸として建てられたものの一部(のち霞ヶ関離宮→帝室林野局旧庁舎)の内の2棟を、1937(昭和13)年に移築したものです。

 掛川市の見所の紹介はこれにて終わりますが、調べてみたところ、掛川市内に残る神社の多くが、江戸時代に建てられた本殿を残しているようです。

 それでは引き続き、浜松城をみていきましょう。


(参考:掛川市ホームページ)

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