第10回 デタント外交とニクソン、カーター

ニクソン、大統領に当選する

 話はまだ、ヴェトナム戦争が泥沼だった時代に戻ります。
 1968年3月、ジョンソン大統領は次期大統領選への不出馬を表明。4月に黒人解放運動の指導者で非暴力の立場を貫いたキング牧師が暗殺、さらに6月にはJ.F.ケネディの弟、ロバート・ケネディ司法長官が暗殺されるといった、暗い影が政治に差していました。

 次の大統領はリチャード・ニクソン(1913〜94年)です。アイゼンハワー政権で副大統領を務め、マッカーシーと赤狩りを行ったほか、ソ連のフルシチョフとカラーTVに出演するなど活躍したものの、ケネディとTV討論でのイメージ戦略競争に敗北して、その時の大統領選で負け、一時は政界を引退して弁護士になっていただけに、奇跡の復活と言えるでしょう。で、彼のヴェトナム戦争政策については前に見たとおりですので、ここは他のことをお話しします。

 トルーマンにケナンが、アイゼンハワーにダレスがいたように、ニクソンの片腕として活躍したのが、日本でもまだお馴染みヘンリー・キッシンジャー(1923年〜 )でした。ドイツ系のユダヤ人で(大戦中はホロコーストで一族の多くが犠牲に)、この時は、国家安全保障問題担当大統領補佐官を務めました。ちなみにこの人、最近では読売新聞によく原稿を書いていますね。

 で、ニクソンとキッシンジャーは、ソ連の親アメリカ的な態度を中国が批判している状況を利用。上手く対立を利用しながら、この2国と上手く外交を行っていきます。ソ連とは、SALT T(第1次戦略兵器制限)を69年から行い、72年に合意。戦略的攻撃兵器制限暫定協定(ICBM、SLBMの配備または建設中の基数の上限をさだめ、5年間凍結)と、ABM制限条約(弾道弾迎撃ミサイル制限条約)が締結されました。

 一方、中国とはキッシンジャーのお膳立てもあって(中国首相・周恩来と秘密会談)、ニクソンが訪中。こうして、ようやく関係改善にこぎ着けました。正式な国交回復はまだもう少し後ですけどね。

ニクソン・ショック

 ところが、内政は苦手というか、難しい時期だったというのか。
 アメリカは経済力が低下しており、激しいスタフグレーション(不景気なのに物価は高い)にみまわれましたが、結局有効な手を打ち出せません。1971年、減税や賃金・物価の90日間凍結、外国保有のドルと金の兌換(だかん)停止を柱とする新経済政策をうちだし、「金とドルが交換できない!ウッソ!」と世界中を仰天させた、ニクソン・ショックを発生させます。この頃、金とドルの交換価値というのが、非常に重要だったんですね。

 しかしそれでも、スタフグレーションは改善せず、結局世界的にIMF(国際通貨基金)体制の動揺をまねき、今のような国際通貨の変動相場制に世界が移行することになります。

 また、ジョンソン大統領が進めた黒人との差別撤廃には消極的で、むしろ差別撤廃運動や反戦運動は弾圧にかかります。

ウォータゲート事件

 そんなニクソンさん。とんでも無い事件を起こしてしまいます。
 1972年の大統領選挙で、民主党のジョージ・マクガバンを破って再選したところまでは良かったのですが、なんと民主党の全国委員会本部に盗聴器を仕掛けようと侵入した犯人が逮捕された事件に、大統領が関わっていたことが証明されてしまったのです。しかも、捜査を進めるFBIには圧力をかけて、捜査を辞めさせようとしたこともテープが見つかって明らかに。史上初の弾劾で大統領職を失うところでしたが、1973年、その前に辞任。どっちにしろ、「初の」辞任大統領になりました。これを、ウォーターゲート事件と言います。


 その後任には、まだご存命中の、副大統領のジェラルド・フォード1913年〜 )が昇格しました。ここが、アメリカの面白いところですね。別に大統領選をやり直すわけじゃないんです。で、フォードは就任1ヶ月後にニクソンに特赦を与えて、国民から顰蹙(ひんしゅく)を買い、さらに75年初めには過去数十年で失業率過去最悪をマーク。

 ちなみに、意外にもこの人物、現職の大統領としては初めて、日本に来日しています(1974年)。この時、日本の首相は田中角栄。この訪問を最後に田中角栄は首相を退陣し、ロッキード事件で捕まるのですが、ここでは関係ないので省略。

 あと、取りあげておかないといけないのは、ヘルシンキ宣言でしょうか。東西35ヶ国の首脳が終結し、第2次世界大戦後のヨーロッパの国境をようやく承認と人権の尊重などを宣言しました。第2のヤルタ会談とも言われます。また、ある意味ここで冷戦が終結したと考えることも、可能と言えば可能ですね。

カーターの人権外交

 さて、1976年の大統領選挙ではフォードが現職大統領としては、32年のフーバー大統領以来の落選。代わって、民主党のジェームス・E・カーター1924年〜 )が大統領になります。フォードにしろ、カーターにしろ長生きですね。ちなみに、通称はジミーだそうです。

 彼は、不況というか、インフレ問題だけは結局解決できませんでした。
 しかしながら外交面に於いては、北大西洋条約機構(NATO)を強化し、新パナマ運河条約を締結(99年末までに運河をパナマに返還することを約束し、実際に返還)。また、ソ連とSALT U(第2次戦略兵器制限交渉))を行い、戦略的攻撃兵器制限条約に調印しました。

 で、この時ソ連によるアフガニスタン侵攻が行われます。報復措置として彼はモスクワ・オリンピックをボイコットするように世界に要請。日本もしっかりとこれに従って、国内では問題となったことを覚えている方もいるかと思います。・・・私はまだ生まれていないんですがね。それから、彼は、仲が悪いエジプトのサダト大統領と、イスラエルのベギン首相を招いて歴史的な和解をさせます。79年、両国は平和条約を結びました。彼の一連の外交は、人権外交といわれています。

イラン革命勃発

 そんなカーター時代の痛ましい事件は、イラン革命でしょう。
 当時のイランは、アメリカが支援していたシャー国王による独裁政権でした。アメリカは、基本的に左翼と戦う勢力なら独裁者でも応援します。ところが、実に多くの武器弾薬も援助していたというのに、シャー政権はイスラム革命が勃発すると崩壊(シャー国王は亡命〜。ホメイニ師を指示するグループがイランを支配し(イラン=イスラム共和国)、この時、アメリカ大使館が人質に取られます。

 運の悪いことに、これの早期解決に失敗。カーターは支持率が一気に落ち、結局、81年に彼が大統領選に負けて引退した後で、人質は解放されました。

その後のカーター

 特にこのカーター大統領は、今に至るまでよく活躍しています。この前もアメリカ大統領民主党予備選で、某候補の応援をやっていました。で、1982年に彼は地元ジョージア州のエモリー大学にカーター・センターを設立し、世界各地の紛争解決や民主化、人権擁護のために活動。特に非営利組織ハビタット・フォー・ヒューマニティ事業の一環として、貧困者のために低所得者用住宅の建設にも取り組みます。

 90年代になってからも、北朝鮮訪問などをこなし、2002年にはノーベル平和賞を受賞しました。ブッシュ政権のイラク侵攻を批判したことでも知られ、退任時には無能と言われた大統領も、今ではすっかり面目を躍如した格好です。

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