第1回 古代中国〜周、そして秦へ

○古代文明〜古代国家の登場

 前5000年〜4000年頃から、中国の黄土地帯と呼ばれる、黄河の忠・下流域において、初期農耕をする人々が現れました。彼らはアワを栽培し、豚や犬・鶏を飼い、竪穴式住居・泥壁の住居に住む生活をしました。彼らが磨製石斧、そして文様のある彩色土器である彩文土器を用いたことから、その土器の別名をとって彩陶文化といいます。さらに、前2000年〜前1500年頃に、土器の技術の進歩で黒く磨かれた土器も登場し、これを黒陶文化と呼びます。 そして、と呼ばれる大集落が出てくるようになり、王朝が発生するのです。

 伝説では、最初の王朝は「」という王朝です。また、さらにその前には三皇・五帝時代というのがあったとされています。後者はあくまで伝説の域を出ません。しかし、「夏」については、最近の調査で、実在の可能性もでてきました(後述)。

 とりあえず、現在確認されている最古の王朝は「」です。一般的には殷と呼ばれていますが、本来これは商の首都の1つの名前のこと。商は、都市国家の連合体で、商の王は、その共王としての存在でした。また、この頃より青銅製の祭器や道具が利用されるようになります。また、この国では占いによる神権政治が行われます。商の王はその代表だったのです。

 この商は、紀元前1100年頃に、西の諸侯であった、武王こと、姫発率いるに滅ぼされます。有名な小説「封神演義」の舞台で、周の軍師・太公望呂望 異民族の羌族の出身)などが活躍します。ただし、それに書かれている内容と、歴史書では違う部分がかなりあります。

 例えば、商の最後の王・紂王に酒池肉林の生活をさせたとされる妃のダッキの存在は確認されていません(もちろん、彼が熱愛した妃ぐらいはいたでしょうけど)。さらに、紂王が圧政を行ったというのも事実無根な話です。むしろ、綱紀粛正をおこなったぐらいだそうですが、一方で商の退廃が進んでいたことは確かなようで、権力闘争と奢侈な暮らしに慣れた貴族達によって腐敗は著しかったのです。

 もちろん、紂王を悪く書くための材料もあったのでしょう。どうも彼は、戦争を多くやったなど問題があったようではあります。商は、牧野の戦いと呼ばれる決戦に敗北し滅ぶのですが、この時、精鋭部隊は東方に出陣中でした(つまり、周はスキをついたことになります)。

 まあ、この時代について私たちが読む資料というのは、これからずっと後に書かれた書物で、その頃の価値観によって着色されたり、変更されていることが特に大きいです。そんなわけで、紂王の悪行の数々は、周が自らの正当性をアピールするために捏造された、または周は儒教にとって聖域扱いでしたから、後世に良く書かれたようですね。

 もちろん、非の打ち所のない国であれば、そう簡単に滅ぼされるはずはありません。前述の貴族の腐敗もしかりですが、実は、殷(商)の国は、羌族などの異民族を奴隷として使っていました。彼らの集落を襲い、そこの人々を連れて帰りこき使っていたのです。また、主人が気に入らないと殺されることもしばしばで、なんと占いの時に生け贄にもされてしまいました。もちろん、これは羌族にとって大きな恨みとなります。

 そこで彼らと周は手を組んだわけで、羌族出身の太公望も大いに協力したというわけです。もしかしたら、太公望は羌族の代表だったのかもしれません。ちなみに、有名な話ですが、釣りをしている太公望に、姫発の父親である姫昌が話しかけ、その時に「これは傑在である」と、召し抱えることになったという逸話があります(真偽は不明)。このことから、釣り人のことを太公望というようになります。



紀元前1200年〜紀元前1100年の青銅製の刀剣 (大英博物館にて)
 ところで、自分の王朝の正統性を示すため、必要以上に前王朝の最後の王を悪く書くことは、今後もよく出てきます。また、現在の中国文化は、神権政治をはじめとする商の影響が、そんなには見られません(この後、王は神ではなく人になるわけ)。これも、周が商の影をことごとく消したからなのかもしれません。

 また、当然ですが、殷の他にも他地域で文明は栄えていたようです。例えば、雲陽省の長江流域(三峽地域)では、ダム建設に伴う発掘調査によりという国・文化の存在が確認されました。巴は、殷に立ち向かっていたといわれていた国ですが、これで実在が証明されました。

○牧野の戦い

 ところで、周と商(殷)の決戦、牧野の戦いについてみていきましょう。
 このときのために、武王の父・文王こと姫昌は善政を行い、諸侯や異民族との協力も深め、太公望を軍師として迎えます(このとき太公望は70歳だったともいわれていますし、若いという説もあります)。太公望は、様々な工作活動を行い、紂王の評判を落としたり、周の味方になるようにと、諸侯に協力を取り付けます。

 しかし姫昌は機が熟す寸前で亡くなり、その後をついだ息子の姫発は太公望、それから同盟者で、召という地域を治める召公爽(しょうこうせきの字は、正しくは××の部分が「百」という文字)と共に、数多くの諸侯を従えて出陣。牧野という地に陣をはります。

 兵士数は、周が約5〜10万、商が17万といったところですが(本によっては全然数字が違いますので、あまり気にしないように)、商については、前述のように、精鋭部隊が紂王の命令で東方に出陣しており、このときに集められたのは、奴隷や他国を滅ぼしたときに降伏してきた連中でした。しかも、このうち降伏してきた兵士を紂王は一番前に配置します。子飼いの兵士は温存しようと思ったのでしょうが、太公望の号令の下、周軍が正面から突撃してくると、前衛を守る降伏兵は、周に降伏し、商の軍勢を攻めてしまいます。

 紂王とその護衛は良く戦いますが、こうなると敗北。紂王は王者の最後にふさわしく、本拠の朝歌に撤退すると、宝玉を身にまとい、火の中に身を投げ入れて死にました。そしてその死骸を姫発は引きずり出し、ここに矢を3発打ち込み、首を切り、旗にかかげ、商(殷)の最後を決定づけました。

 なお、余談。この姫発の行為を見て、きっとグロテスクだなあと思われた方もいらっしゃるでしょう。姫発はその後、儒教という中国を支配する孔子の教えによって聖人とされましたが、そうすると、この「姫発」の行いはあり得ない、何かの間違いである、と考えられるようになります。なお、この姫発の話は漢の時代、司馬遷という人が書いた「史記」によります。

 ここにも、難しいところがあります。当然、儒教は周を聖域化しすぎだ、と言う点もある一方で、司馬遷が「史記」を表した時点では、もう周が出来てから2000年も立っているわけです。その間にまとめられた書物の中で、当然、その時代の価値観で変更を加えられていることでしょう。前述してくどくなりますが、本当に、実際はどうだったのか、解らないんですね!(笑)

○戦車

 それから、この時代から長らく先、戦では「戦車」という物を使います。もちろん、90式戦車とかレオパルドUなんか想像してはいけません。雰囲気としては、馬車です。2頭の馬(時代が下ると4馬に)にひかせて、突撃します。中国に登場したのは、商の時代の後期、紀元前1300年ぐらいだそうで、状況から察するに、古代エジプトで開発された物が伝わり、商で改良された、といったところだそうです。

 車体は木製で、重要な部分に青銅の金属で補強。車輪の付いた箱を馬にひかせ、その箱の中に3人ほどが乗ったらしいです。機動力が高く、戦で重宝されましたが、乗り心地が悪く、漢の時代になると後方で貴族が乗るための物になり(ちなみに、1頭にひかせたり、傘が付いたりします)、前線から撤退。そして、何時しか使われなくなっていきました。

○気になるニュース

 ところで、2004年になってかなり気になるニュースが飛び込んできました。
 1つは、中国河南省にある二里頭遺跡で伝説の夏王朝の都城と推測される城壁址を発見ということ。約3600年ほど前の城壁、それから城内にはきっちりと整備された道路もあると言われています。今まで、「夏」という王朝はおそらく実在したと言われていても、確たる証拠は少なく、やはり伝説の域にあったのですが、これで一気に研究が進むと期待されます。

 もう一つは酒池肉林の話。先ほど、ダッキとの関係で登場しましたね。
 殷の最初の都があった「偃師商城」(河南省)遺跡から、石で造られた大規模な池の跡が発見されて、どうもこれが「酒池肉林」の元になった池じゃないかと言われております。もちろん、殷の最初の都の時代ですから、紂王とダッキには関係のないことですが、前の時代に、その元ネタとなった事件、どんちゃん騒ぎがあったのかもしれません。


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