世界各地域史・中国の歴史
第6回 晋〜南北朝時代
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○晋は長く続かず・・・。 |
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○五胡十六国の華北地域と北魏 |
| 民族 | 王朝<都> | 存続期間(年) | |||
| 五胡 | 匈奴(きょうど) | 漢→前趙(ちょう) <平陽→長安> | 304〜329 | ||
| 北涼 <張掖→涼州> | 397〜439 | ||||
| 夏(か) <統万城> | 407〜431 | ||||
| 羯(けつ) | 後趙 <襄国→業> | 319〜351 | |||
| 鮮卑(せんぴ) | *代 <成楽> | 315〜376 | |||
| 前燕(えん) <龍城→燕> | 337〜370 | ||||
| 後燕 <中山→燕> | 384〜407 | ||||
| *西燕 <長安> | 384〜394 | ||||
| 西秦(しん) <金城(甘肅)> | 385〜431 | ||||
| *北魏(ぎ) <平城→洛陽> | 386〜534 | ||||
| 南涼 <廉川> | 397〜414 | ||||
| 南燕 <広固> | 398〜410 | ||||
| F(てい) | 成(漢) <成都> | 304〜347 | |||
| 前秦 <長安> | 351〜394 | ||||
| 後涼 <涼州> | 386〜403 | ||||
| 羌(きょう) | 後秦 <長安> | 384〜417 | |||
| 漢 | 前涼 <姑臧> | 313〜376 | |||
| *冉魏(ぜんぎ) | 350〜352 | ||||
| 西涼 <敦煌→酒泉> | 400〜421 | ||||
| 北燕 <龍城> | 409〜436 | ||||
| *代、西燕、北魏、冉魏は十六国にかぞえない。 | |||||
| Microsoft エンカルタエンサイクロペディアより | |||||
さて、北魏を大きく隆盛させたのが第六代皇帝の択抜宏(孝文帝 位471〜499年)です。彼は、首都を平城(山西省大同)から、洛陽に移し、鮮卑語を宮廷で使わないようにし、さらに自分の拓抜という姓を元という姓に改め、家臣にも同様にさせるなど、反対はありましたが鮮卑族の漢化政策を行います。異民族という肩書きをはずして、中国全土の支配をしやすくしようとしたのでしょう。また彼自身、母も祖母も漢民族で、純粋な鮮卑族でなくなっていたことと、さらに彼は儒教の教養を身に付けていたことも影響していると思われます。
また、特に大きな業績としては485年に実施された均田制があげられます。これは丁男(15〜69歳)に百畝を給付し、死亡時または70歳で国家が回収するという制度です。そして女性にもその半分、奴隷にも一定の給付がありました。ここから租・調という税が課せられます。日本史でもおなじみの言葉です。「班田収授法」がそれにあたります。
しかし、孝文帝による漢化政策に対する鮮卑族の反感は非常に強く、彼が死ぬと差別されていた漢民族の農民も含め、華北で大反乱が起きます。その中で北魏は、孝静帝擁する高歓による西魏(535〜556年)と、孝武帝擁する宇文泰による東魏(534〜550年)に分裂し、さらにそれぞれ宇文泰・高歓の息子にのっとられて北周(556〜581年)・北斉(550〜577年)へと変わります。
ところで、西魏では「府兵制」が導入されます。府兵は「軍府に配属された兵」のことで、税と力役負担は免除されますが、武器・馬・衣服は自分持ちです。この制度は隋・唐で確立します。
で、また話は変わって、前述のように宋・斉・梁・陳と変遷し、いずれも中国全土を統一できずに終わっています。そんな中でようやく中国を統一したのが、隋の楊堅(文帝 位581〜604年)という男です。この男は北周の皇室の外戚で、皇帝の座を奪います。また、彼は漢民族でしたが、生活様式は北方民族的で、さらに奥さんは鮮卑族でした。それもあって、鮮卑族の協力も得られやすかったのでしょう。その後彼は、北斉、そして589年に南朝の陳を滅ぼし、中国を統一したのでした。
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