第17回 最後の漢民族王朝・明の建国
それはさておき、この明王朝を建国したのが朱元璋という人物です。貧しい農民の生まれで、前漢の劉邦と並び、農民から国を興した2人のうちの1人です。彼は、1347年に、郭子興の反乱軍に身を投じ、彼に気に入られて出世します。そして、郭子興が死去すると反乱軍の頭領となり、そして李善長、劉基という能力ある人を参謀に迎えます。 李善長は朱元璋に「劉邦と同じようにしなさい」と進言します。そして劉基は張良と同じような働き、つまり参謀として活躍をします(後世、張良との比較をよくされる)。こうした人々の助けもあり、朱元璋は他の反乱軍を倒し、そしてその勢いで元を滅ぼすに致るのです。 1368年、朱元璋は即位(位1368〜98年)し、元号を「洪武」とします。それまで、元号はお目出度いときや災害が続いたときに変更されていましたが、朱元璋は一世一元の制を定めます。今の日本と同じで、皇帝1人の在位につき元号を1つだけにすることにしました。ゆえに、朱元璋は太祖という廟号と別に洪武帝とも呼ばれます。
また、これ以後の皇帝は清も含め元号+帝という形で呼ばれます。 さらに10年後には功臣の李善長を含む3万人を処刑し、さらに2年後には2万人が処刑されます。ああ恐ろしい・・・。ちなみに張良と比較される劉基は、大粛清が行われる前の1375年に死去していますが、胡惟庸によって毒殺されたとも言われています。彼は、朱元璋が丞相を選ぶために相談を受けた時、「胡惟庸は丞相の器ではない」と評価していました。ただし、だからといって自分がなろうとしたのではなく、あくまで正当に評価したものだったようです。ちなみに劉基は中国では大変有名な人物です。日本で知られていないだけ。
1399年、朱元璋の4男の燕王朱棣(しゅてい)が挙兵します。スローガンは「幼い天子が、奸臣(悪い家臣)によって惑わされ、我々を迫害しているから、この奸臣を除いて、明を立て直そう!」というもの。おきまりの台詞ですね。 当初、動員兵数が少なく不利かと思われた燕王側でしたが、朱元璋は少しでも危険と思われる将軍を全て誅殺していたので、建文帝側には優秀な人材がいなく、一方、北方でモンゴルとよく戦っていた朱棣は実戦経験豊富なため、次第に建文帝を追いつめます。 そして1402年に首都金陵を陥落。建文帝は自殺して果てました。ちなみに当時から、建文帝は僧になって、逃げ延びたという話も残っています。いずれにせよ、燕王朱棣は明の3代皇帝として即位します。永楽帝です(位1402〜24年)。 当たり前ですが、永楽帝の行為は公然たる反乱でした。そのため、金陵の人々は彼に反感を持っています。建文帝生存伝説はその中の1つです。さらに、知識人や政府の中にも彼に公然と反抗し処刑された人もいます。そのため、永楽帝は金陵に居づらくなり遷都することにしました。遷都先は自分の根拠地である燕の地です。そして元の大都があったところに都を定め、ここを北京と改称します。また同時に、金陵を南京と改称しました。 また、朱元璋は「宦官は国を滅亡させるから使ってはならない」と厳命していましたが、永楽帝の場合、金陵の知識人・政府関係者に評判が悪く協力を得られない。そこで、必然的に宦官に頼っていくことになります。これが、明にとって命取りになります。 さて、永楽帝は対外遠征を盛んに行います。彼はヴェトナムやモンゴルと多く戦いました。明ではモンゴル高原の東部にいる部族をタタール部、西部にいる部族をオイラート部と呼んでいます。これらが北元とどのような関係にあったかは諸説あります。タタール部=北元というのが有力ですが、そもそもオイラートとタタールは同一だったのではないかとも言われています。ともあれ、対外遠征は余り大きな効果を上げることなく、1424年、永楽帝はモンゴル遠征中に病死します。どうやら、燕王に任命されたときから、モンゴル侵攻が永楽帝のライフワークだったようです。 次のページ(第18回 明時代の東シナ海)へ 前のページ(第16回 モンゴル・元時代の文化)へ |