さて古代ローマ時代、現在のドイツ地域に進出した民族がゲルマン民族です。彼らについては、カエサルの「
ガリア戦記」、タキトゥスの「
ゲルマニア」という著作が様子を伝えてくれます。要約するとこんな感じ。
・森の民族。いわゆる、ドイツの黒き森を想像して頂けると良いです。あんな所に住んでいた。
・大小数十の部族に分かれ、その下にさらに血縁による集落が存在し、首長がそれを統括。
・身分には貴族・自由民・奴隷がいる。これらは原則として血筋で決まっているが、その一方、武力(いわば実力)も考慮された。
・自由民が貴族に対し軍事と裁判に参加する
従土制度が基本。
・重要な問題は、部族長が主催し、自由民以上全員で決める。
・耕地は、地力が衰えると放棄。次の土地へ移動する。
・農業は基本的に女性の仕事。
・男性は基本的に狩猟。
・羊・山羊・馬・牛・豚を共同放牧。
ちょっと先のことになりますが、基本的にこの部族単位というものは、ドイツでは長いこと続き、領邦国家として存続します。ゆえに17世紀でも300ほどの国があり、さらに19世紀になっても40カ国ほどありました。そして、ビスマルクによってようやく1つのドイツ国家としての体裁を整えていく・・・と、まあそれは後の話にしましょう。
さて4世紀になると、中央アジア方面より
フン族という遊牧騎馬民族が向かってきました。このフン族によって、黒海北岸のゲルマンの一派・
東ゴート族を襲い従属させます。これはたまげた!というわけで、ほかのゲルマン諸族が大移動を始めました。これが、
ゲルマン民族の大移動と呼ばれるものです。
そして中部ガリア(今のフランス地域)には
ブルグント族、北ガリアには
フランク族、ブリタニア(今のイングランド島)には
アングロ=サクソン族、北アフリカの旧カルタゴの地域には
ヴァンタル族が移動し建国します。また、
西ゴート族は西ローマ帝国に助けを求め、領内に入ります。そして、帝国中で傭兵などとして出世していく者も現れていきました。前にも述べましたが、傭兵というシステムはヨーロッパでは一般的です。
また西ゴート以外でも、西ローマ領内へある部族は平和理に、またある部族は侵入という形で入り込むようになり、もはや西ローマにこれを防ぐ力はありませんでした。410年、ローマは
アラリック率いるゴート族にローマは3日間に渡り略奪されます。実はこの時、西ローマ帝国の将軍
スティリコ(ヴァンダル族の人 365頃〜408年)は、アラリックを巧みに攻略し、機を見計らい和を結ぼうと頑張っていたのですが、
ホノリウス帝はスティリコを処刑してしまいました。奇怪としかいえない行動です。
ちなみにこのフン族、昔より中国の漢という国を脅かしていた
匈奴という民族との片割れではないかと指摘されていますが、未だに真相は明らかになっていません。
さてさて、この頃のローマ帝国は東西に分割され統治されていましたが、コンスタンティノープルの東ローマ帝国と、ローマの西ローマ帝国では国力に大きな差がありました。というのも、東は人口も多く、農業基盤も整備され、また熟練した政治家が統治していました。一方西では、生産能力が低く、また統治者も若い貴族が出世への過渡的な役職として働いていました。さらに、傭兵を雇うために都市に重税をかけ、経済を没落させました。
そんなわけで、東ローマ帝国では西は自分たちの宗主権下にあると考えていたといわれています。つまり、正当なローマ帝国は東だということです。そのため、何かと西にちょっかいを出します。一方の西ローマは権力闘争に明け暮れました。
そんな中、再び動きを見せたのがフン族。フン族の王
アッティラ(位434〜453年)は叔父の
ロアス王の跡を継ぎ、445年に共同の王だった弟のブレダを殺害すると、彼は従属させている東ゴート族の軍勢を引き連れ、まずは東ローマ帝国へ。皇帝
テオドシウス2世の軍勢を打ち破り、コンスタンティノープルに迫りますが、城壁に囲まれているこの都市を落とすことは出来ず、賠償金を貰い撤退。
続いて、ガリアに侵入。この時は西ローマ帝国の軍勢にまさかの敗北を受けました。が、立て直すと452年にはローマへ向かいます。これは危険!略奪される!!
それを救ったのがローマにいるキリスト教の
司教レオ1世です。彼は、アッティラを説得し、これを思いとどまらせました。が、どうやって説得したのか・・?もう、ローマには略奪する価値がないと言ったのでしょうか?この辺りのことをふれている本は、ありません。疑問です。
そして、翌年アッティラは死去。これにより、フン族はバラバラになり歴史上から姿を消しました。騎馬遊牧民族では、1人の王の死と同時に部族が解体することはよくあります。ですがその後、彼らはどうなったか?フン族と
ハンガリー(Hungary フンガリー)は同一なのでは?という説も昔からありますが、不明です。
何はともあれ、衝撃的なアッティラによる侵入は、長くヨーロッパ人達の記憶に受け継がれました。
そして西ローマ帝国はいよいよ滅亡へ・・・。東ローマ帝国では、なんとこの国の有力者に
ハトリキウスという役職を作って与えるようになります。代官のような意味合いです。そして476年、西ローマ帝国では傭兵隊長の
オドアケルが「ゲルマンに土地を!」と皇帝の
ロムルス・アウグストゥスに要求し、拒絶されたことから反乱。これを滅ぼし、自分の
オドアケル王国を建国しました。そして、東ローマ帝国からパトリキウスの称号をもらいます。
こうして西ローマ帝国は姿を消し、1つの時代が終わりました。しかし、東ローマ帝国にから見ればローマ帝国は自分たちのことなので、西の領土が少しかけただけのことかも・・しれません。ですが、東ローマ帝国はその後ギリシャ語を公用語にするなど、次第にローマ文化からは離れていき、さらに後に勃興するイスラム教世界の影響も少なからず受けることになりました。そのため、コンスタンティノープルの旧名のビサンティウムをとって、
ビサンツ(ビサンティン)帝国といわれるようになります。ただ、その境界は曖昧。ですから、ここではもう少し東ローマ帝国と呼ぶことにしましょう。
ちなみに、1つの時代とは何か。それは、古代社会の終焉。
・・・と、もう一つ重要なのはヨーロッパにおける商業の衰退と、封建制への移行です。ローマ帝国は金貨という貨幣を鋳造し、これで東南アジアにまで貿易の手を伸ばしましたが西ローマ帝国末期には貨幣を改悪し、経済を混乱。加えて滅亡後は、有力者が貨幣を好き勝手に鋳造するものですから信用度が無くなります(一方の東ローマ帝国は、商業が大発展します)。
また、奴隷制度も変わります。奴隷から隷属的な
小作人(コロヌス)から地代を取って自給自足をする
小作制が一般化し、後の農奴制の先駆となりました。
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