話は西ヨーロッパに戻ります。
ゲルマン民族大移動の後、王国として特に発展したのがフランク族による
フランク王国です。この国は482年、メロヴィング家の
クローヴィスがガリア地方を制圧し王位に就いたのが始まり。496年には正統とされた
アタナシウス派キリスト教に、部下と共に改宗し、ローマ人達との関係を良くします。
しかし、相続方法が分割相続だったため、配分を巡って内乱が絶えず、8世紀には王家の力は弱まり、代わって王家の
宮宰(きゅうさい:執事の長のようなもの)が力を持つようになります。
そして宮宰の
カール=マルテル(688頃〜741年)は、スペインを占領していたイスラム教国家
ウマイヤ朝(661〜750年)のヨーロッパ本土侵攻を
トゥール・ポアティエ間の戦いで破り、「キリスト教をイスラム教から救った!」と英雄に。ちなみにこの戦いは、どこで行われたかはっきり解っていないために、「〜間」となっています。
この支持を背景に、マルテルの息子
小ピピンは、「俺が王位を奪っても良いか」とローマ教皇に接近し、承認を得ます。
よって751年、彼はメロヴィング朝を廃して
カロリング朝(751〜987年)を始めます。なお、このローマ教皇の支持とは、いわば双方にとって契約のような物。小ピピンは自分の地位を正当化してくれる存在が必要で、さらにローマ教皇は東のコンスタンティノープル教会と争っていたため、強い味方が必要でした。
何で争っていたか。実はキリスト教は、元々
コンスタンティノープル、
アンティオキア、
アレクサンドリア、
エルサレム、と
ローマの
五教会を総本山に活動していました。しかし、ローマは「うちは、ペテロが活動した、あのローマ帝国の都にある。さらに、以前ローマに侵入したフン族を追い出した、だから特別だ」と宣言し、各教会で一番えらい人、すなわち司教を教皇と名乗らせることにします。
一方、コンスタンティノープル=ビサンツ側は「ローマ?お前らは、我々の下に付くに決まっているじゃないか」と怒ります。さらに、726年。東ローマ(ビサンティン)帝国皇帝
レオン3世(位717〜741年)は「キリスト教では、元々聖母マリアなどの聖像を崇拝しない。それに、イスラム教徒が、聖像を崇拝するなんて・・と嘲っている」というわけで「
聖像禁止令」を発布します(当時、キリスト教会では、マリア像などの崇拝が広がっており、またイスラム教は聖像を崇拝せず、これを忌み嫌っていた)。また、この時教会の財産を没収し、国力に編入しています。
ところが、ローマは「ゲルマン人達に布教するためには、像が必要なのだ」と反発。両者、険悪になります(ちなみに、結局ビサンツでも反対がでて、撤回される)。
またもう一つ、当時の北イタリア地域は東ローマ帝国の支配から、ゲルマン民族の一派であるロンバルド(ランゴバルド)族によるロンバルディア王国の手に移ります。他のゲルマン諸国、諸族は東ローマ帝国の影響下にありましたが、彼らは明らかな敵対行為を取り、しかも東ローマ帝国は、これに敗北して反撃が出来ません。

(カール大帝 Microsoft エンカルタ エンサイクロペディア2001より) |
ゆえにローマ教会は、役に立たない上に対立する東ローマ帝国を見限り、小ピピンに接触。まず、フランク王国の王位を認め、小ピピンは、息子
カール(742〜814年 左図)に命じ、イタリアの774年にロンバルディア王国を滅ぼし、ラヴェンナの地を教皇に献上(
ピピンの寄進 教皇領の始まり)。
さらに800年、教皇
レオ3世(位795〜816年)は、小ピピンの跡を継いだ
カール大帝(位768〜814年
左図)に対し、ローマ帝国を復興せよと「ローマ皇帝」の帝冠を与えます(
カールの戴冠)。ここに、「(西)ローマ帝国」が復活したのです。・・・・といっても、名前だけですが。
とはいえ、この事件は多少なりとも残っていた東ローマ帝国=ビサンティン帝国の影響下から、いよいよ新勢力による西ヨーロッパの秩序形成という意味で、大きな政治的事件です。さらに、ゲルマン=ローマ=キリスト文化の融合としても、重要です。また、宗教面ではローマとビサンツの決裂ともいえ、11世紀には完全に分離。ビサンツ側は皇帝を首長とする
ギリシャ正教会を誕生させました。
なお、カール大帝はアジア系のアヴァール族討伐で活躍。さらに文化面でも
アルクィンを始めとする学者を招き、教育・文化の発展に尽力し、
カロリング=ルネサンスと呼ばれます。
ところが、カール大帝の孫達は領土を巡り内紛。834年に
ヴェルダン条約が結ばれ、現在のドイツを中心とする
東フランク王国(
ルードヴィッヒ王)、フランス地域である
西フランク王国(
シャルル王)、イタリア・中部フランスの、
中部フランク王国(
ロタール1世)に分割されます。さらにロタールが死去すると、中部フランス地域は東と西で分割されました(870年、
メルセン条約)。
このまま、3国は結合することなく、ドイツ、フランスの原形となります。ただし、イタリアについては複雑なので「原型出来た」とはいえません。多くの歴史書では、そう書いていますが・・・・。
と、いうのも南イタリア地域は支配下に置かれませんでしたし(南は、東ローマ帝国領など、さまざまな国家による統治)、9世紀には中部フランク王国(イタリア王国)のカロリング家の血統が途絶えます。その後、諸侯によって分割され都市国家的な面積の国家群の乱立状態になってしまいました。
なお、911年には東、987年には西でもカロリング家の血統が途絶えました。

カロリング朝の血統が絶えると、919年、東フランク(ドイツ地域)においては
ハインリヒ1世(位 919〜936年)による
ザクセン朝が成立。2代目
オットー1世(位 936〜973年)は、ドイツ地域特徴の小部族国家乱立状態を何とか中央集権国家にしたいと考えます。
そこで、自分の血縁者に要所を任せ、血縁者により地盤を固めていこうとしました。ところが、953年には長男
リドウルフが反乱を起こすなど、なかなか統治がうまく行かない。そこで次に注目したのがキリスト教でした。
ちょうどその頃イタリアは、スラヴ民族系のマジャール人による侵攻や、イタリア地域内での抗争に明け暮れローマ教会が困っているところでした。
そこで、教皇
ヨハネス1世はオットー1世にイタリア遠征を行ってもらい、962年、オットー1世に空位となっていたローマ皇帝の位を与えます。
これにより、オットー1世は形式的にはヨーロッパの王の中で最も偉い人になり、 以後、東フランク王国は、ローマ皇帝を事実上独占したことから、「帝国」「ローマ帝国」「神聖帝国」等の呼称の後、1245年には「
神聖ローマ帝国」と呼ばれるようになります。
次に領内の聖職者達に官職を与え、特権を与える一歩、自分の支配に協力してもらいます。というのも、キリスト教は小部族国家同士の抗争には関係なく、ドイツ全土に影響力を持ちます。その人達がオットー1世の行政府内に組み込まれるのですから、影響力は絶大です。
しかも、建前上キリスト教の聖職者達は独身です。ゆえに、子孫に自分の位を継がせることもありません。この施策は、結構成功を収めました。しかし、小国乱立状態は延々とつづき、皇帝達の悩みの種となりました。
一方、987年のルイ5世の死によって、カロリング王家の血筋が途絶えた、フランス地域の西フランク王国では、パリ伯の
ユーグ・カペーが王に選出され、カペー朝が出来ます。しかし、出来たといっても、パリ周辺の統治しか出来ず、やはりキリスト教を利用して、なんとか「王様は偉いんだぞ!」と王権の伸張を狙います。しかし、なかなか・・・・。
と、西フランクのお話はここまで。続きはまた今度です。
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