第22回 カノッサの屈辱〜封建社会の成立と教会

○頼りになるのは近くの有力者

 ゲルマン民族の大移動の後、西ヨーロッパ社会では混乱の中で荘園制を基礎に、主従関係を持つ階層社会、封建制度が登場します。封建関係は、主君と家臣の間で託身(オマージュ)と誠実誓約という儀式でよりむすばれます。

 この制度、ローマ末期からみられた恩貸地制度(土地所有者が、自分の土地を守ってもらうために、有力者に土地を献上し傘下に入り、改めて土地を借り受けるという制度)、およびゲルマン民族の従土制(貴族・自由民の子弟が、他の有力者に忠誠を誓い、家臣になる制度)の2つが融合していったものです。

 ちなみに主君や家臣といっても、ともに自由人。元の身分は同じだったりもします。要は契約関係というわけです。主君は家臣に封(荘園または官職・徴税権など)を与える、家臣は主君に忠誠と軍役を果たすというシステムです。

 また、8〜9世紀はイスラム勢力、マジャール人、ヴァイキングが侵入を繰り返し、人々は役に立たない遠方の王(つまりフランク王国の王ですね)よりも、付近の有力者に土地を託します。これに対し、土地の増えた有力者は、多数の騎士を従え、各地に城を築城し、と名乗ります。

 こうして、王は実質的に権力が無くなっていき、諸侯のご機嫌をとるようになりました。この、王、諸侯、騎士という関係を、封建的主従関係といいます。

○教会の組織作りと聖職叙任権

 フランク王国のカール大帝の頃、まだまだキリスト教は多くの人々にとって、生活に身近な存在ではありませんでした。そこで、より教会が身近な存在となるよう、10世紀から12世紀にかけて教会の組織作りが始められます。

 まず、ローマ教会本体では、教皇、大司教、司教、司祭といった階層を整備。次に教義・儀式を定める最高決定機関「公会議」、聖職者の任・罷免権を教皇に持たせるなどの制度を整えます。そして、農村に効率よく浸透するために教会を次々造り、農村を単位とする小教区を設定します。

 と、ここで問題が発生。聖職者の任・罷免権を教皇に持たせる・・・としましたが、現実では力のある領主が私設で教会・修道院を建て、自分で聖職者を任命することが多々ありました。しかも、教会には寄付や荘園などからの利益がまいこんでくるのですから、国王や諸侯は、こうした私設教会だけでなく、領土内にあるすべての教会・修道院を自分のものにしようとします。

 さらに、神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ3世(位1039〜56年)は、領内の教会・修道院で聖職者を自分で任命しただけでなく、教皇も自分で4人任命しています。こんなことですから、教会は世俗化と退廃が進みました(ちなみに、この皇帝は1042年にハンガリー王国を服属させています)。

 それよりも少し前の、910年に教皇直属として設立された、フランス中東部・ブリュゴーニュ地方クリュニー設立されたクリュニー修道院は、厳格な修道生活、典礼の強調などキリスト教の原点に返った厳しい生活を実践し始めます。そして、11世紀にかけて「教会を改革しよう!」と立ち上がります。

 このようなローマ教会の方針を無視した動きに、キリスト教のお偉いさん達は激怒! 1075年、教皇グレゴリウス7世(位1073〜85年)は皇帝・国王に対して「聖職者の任免は教皇が決めること。教皇が一番偉いのであって、君たちにはその権利はない!」と通達(教皇令書)をだします。

 これに激怒したのがハインリヒ4世(位1056〜1105年)。彼は親父の跡をなんと6歳で継いだ神聖ローマ皇帝(皇帝としては1084年から)なのですが、この動きに対して、あえてイタリアの聖職者を自分で任命します。さらに、教皇の廃位を決定。これに対し、教皇は「あんな奴は破門だ!他の諸侯諸君も、あんな奴は国王と認めるな!」と通達します。これにドイツ諸侯は動揺します。

 1077年1月、この状況を前に、仕方なくハインリヒ4世は、アルプスをこえて教皇が滞在するカノッサの城門の前で3日間、修道服をきて雪の中にたたずみ教皇の許しをねがいます。これを「カノッサの屈辱」といい、これによって両者は一時的に和解しました。

 と、教科書ではここで終わり「教会って強いなあ」となるのですが・・・なんと、よほどこの一件が腹にきたとみえ、ハインリヒ4世は、なんと教皇を襲いにかかります。結局、グレゴリウス7世はサレルノ(イタリア南部の都市)に逃亡し、病死してしまいました。

 こういった一連の教会と国王の対立を、聖職叙任権闘争といいます。

 この流れが解決したのは、表向きには1122年。教皇カリストゥス2世と神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ5世ヴォルムス協約を結び、教皇は司教の叙任権を堅持するが、皇帝は諸侯としての司教の選出に立ち会い、俗権を授けると妥協しました。まあ、2人で一緒に任命しようということですね。

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