
第一学習社 世界史最新図表より |
さて、ち〜と先ほどの話からは時代を戻し、11世紀末。西ヨーロッパではようやく「封建社会」というものが安定した時のこと。社会の仕組みがきちんと構築されて、次第に人口も増加し、外に目を向ける余裕が出てきました。
そんな中、代表的な対外遠征は、スペインと北アフリカを支配するムワッヒド朝(1130〜1269年)から、スペインを奪い返そう!という動きに代表される国土回復運動<レコンキスタ>、そしてビサンツ帝国をイスラム勢力から助けてやろうじゃねぇか!という十字軍がおこりました。ここでは十字軍をお話。
当時東ローマ(ビサンツ)帝国は、セルジューク朝トルコ(1038〜1194年)による侵略によってボコボコにされていました。また、キリスト教の聖地イェルサレムも占領されてしまいました。当時東ローマ(ビサンツ)は、自分のところがキリスト教の中心と言っていたので、ローマにあった西ヨーロッパのキリスト教の総本山ローマ教会と仲が悪い。しかし、もう好き嫌いを言っている状況ではありません。東ローマ皇帝アレクシオス1世はローマ教皇ウルバヌス2世に救援を要請します。これに対し各方面からの反応です。
・ ウルバヌス2世「これは、ビサンツの教会を統合できるかも知れないッ!」
・ 西ヨーロッパの諸侯達「人口が増えた。土地が欲しい」「神のためなら命も捨てる!」
・ そして北イタリアの商人達「貿易拡大のチャーンス!」
てなわけで、「よっしゃ〜出陣!」と、救援軍が派遣されます。合計7回派遣されました。簡単にまとめましょう。
まず、派遣はクレルモンの公会議で決定。この時ウルバヌス2世は演説の中で
「あなたたちは、東方にいる同胞達に大至急援軍をおくらねばならぬ。ペルシアの住民なるトルコ人が教会を破壊し、神の国を荒らし回っている。あの忌まわしい民族を私たちの土地から根絶やしにしろ!」と熱く語り人々を奮起させます。
が・・・、恐れ多くも聖職者の発言ではありません・・・。これではブッシュ大統領(笑。
| 回数と期間 |
派遣の理由・目的 |
結果 |
| 第1回(1096〜99年) |
セルジューク朝、
聖地を占領 |
セルジューク朝は分裂状態にあったため弱体化していた。
そのため、なんとか聖地を奪還。イスラエル地域に イェルサレム王国とその他3つの諸侯国(トリポリ伯領、アンティオキア侯領、エデッサ伯領)を建国。また、多くの城・城塞を築く。
この十字軍には民衆も参加。しかし、多くは戦死した。
また十字軍により、イェルサレムにいたエジプト人・地元住民の多くが虐殺された。
イスラム文化・食品がヨーロッパに伝わる 。
ビサンツ皇帝アレクシオス1世は、「奪還した土地は私のものだ」と主張。十字軍の諸侯を呆れさせる。だが、結局アレクシオス1世はしたたかに領土を確保している。意外と策士である。
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| 第2回(1147〜49年) |
イスラム勢力の反撃
(エデッサ伯領滅亡) |
フランス国王 ルイ7世、神聖ローマ帝国皇帝 コンラート3世の参加。しかし、内部対立をしてしまう。1168年、ファーティマ朝を倒し アイユーブ朝エジプトを建国した、 サラディン(サラーフ・アッディーン 1138〜位1168〜1193年) により大敗北を喫す。中東におけるキリスト教領の多くが失われる。
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| 第3回(1189〜92年) |
サラディンの
イェルサレム占領 |
1187年に、サラディンがイェルサレムを占領。これに対し、神聖ローマ皇帝 フリードリヒ1世、フランス王 フィリップ2世(位1180〜1223年)、イギリス王 リチャード1世(位1189〜99年)が手を組んで大軍団で侵攻。聖地は奪えなかったがサラディンの情けで、ささやかな領地を確保。
フリードリヒ1世は、イェルサレム到着前に病没。
イングランド王リチャード1世らはイスラム教徒を虐殺。
イスラム教徒を虐殺した十字軍に対し、サラディンはキリスト教徒を迫害せず、捕虜も送還。無用な殺戮は一切行われず、ヨーロッパから真の騎士であると絶賛。その後、詩などでも詠われるようになる。
リチャード1世は、帰国するとが弟の ジョンに奪われており、神聖ローマ皇帝 ハインリヒ6世に身柄を渡される。そこで、多額の身代金を払わされる。ジョンから国を奪い返すと、なんとこの事件の黒幕だったフランス王フィリップ2世に攻撃を開始。が、この戦いの傷が元で死去。
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| 第4回(1202〜04年) |
アイユーブ朝
エジプトを倒せ!? |
なんと、ビサンツ帝国のコンスタンティノープルを占領し、 ラテン帝国を建国。当時、ビサンツでは内紛が起こっており、堅固なはずの城門が開かれてしまった!!これは、ヴェネツィア商人達が、商売敵のビサンツ商人を倒してくれと要請したため。ビサンツ側は、小アジアのニケーアやバルカン半島に亡命政権を作り、1261年に首都奪回を果たすが、昔日の威容は無し。
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| 第5回(1217〜21年) |
アイユーブ朝エジプトを倒す |
エジプトの港ダミエッタ(ドゥミヤート)を占領、が、カイロ攻撃には成功せず、結局ダミエッタも放棄。遠征は失敗。
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第6回(1228〜29年)
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アイユーブ朝エジプトからの聖地回復 |
教皇グレゴリウス7世が、神聖ローマ皇帝 フリードリヒ2世(位1212〜1250年)に聖地回復を要請。しかし、フリードリヒ2世はイタリア諸都市の反乱と、度々出発を遅延し、破門される。
ところが、1228年になって突如出発。アイユーブ朝エジプトのスルタン(国王) カミールより外交交渉でイェルサレムを譲り受け、形ばかりのイェルサレム王の娘と結婚し、同国王に即位。
が、教皇は激怒し、なんとフリードリヒ2世に対する十字軍を派遣し、皇帝のイタリア所領を奪う。
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| 第7回(1248〜54年) |
エジプトが聖地を奪う |
フランス王 ルイ9世(位1226〜1270年)が捕虜になって失敗。
なお、ルイ9世はフランス王としては英明な君主で、市民層と小貴族を中心とする官僚の整備、通貨の発行と管理で経済を安定させ、 ソルボンヌ大学(現パリ大学の一部)設立で学問の発展、平和友好政策で周辺国安定などを果たす。
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| 第8回(1270年) |
チェニン攻撃 |
再び聖地奪回に執念を燃やすルイ9世が出陣。しかし、高齢のため病死し失敗。以後、十字軍は編成されずに終了。
ちなみに、チェニンは現在のチュニジアの首都。カルタゴの近くの都市で、当時は ハフス朝(1228〜1574)年の都市である。ハフス朝は、ムワッヒド朝の宗教的堕落に反対して独立。が、その統治は安定せず、後に オスマン朝に併合される。
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結局、十字軍は第1回目以外、その目的を実質的に果たせないまま終了しました。そして、十字軍によって得られたもの・・・それは、聖地ではなく、ヨーロッパよりも優れたイスラムの技術、それから食料などです。
そうした意味では、十字軍は大きな意義があります。しかし、
子供十字軍(宗教熱が高まる中、子供たちが十字軍として自発的に出陣。しかし、途中で奴隷として売り飛ばされる)などの悲劇も起こります。また、十字軍によるイスラム教徒、それからユダヤ教徒に対する虐殺も行われました。十字軍が血塗られていることを、忘れてはいけないでしょう・・・。
また、長く命脈を保っていた東ローマ(ビサンツ)帝国もこれ以後、ブルガリア人やセルビア人によって大半の領土が削られコンスタンティノープルとその周辺しか領土がなくなります。その僅かな領土も1453年、トルコに出来た
オスマン朝という新興国によって滅ぼされ、ついに歴史の幕を閉じました。
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