
第26回 イギリスVSフランス?と教会の衰退
1066年に、西フランク(フランス)王国のノルマンディー公ウイリアム(ウイリアム1世)がイングランドを征服したことは前述しました。その後、12世紀になって王位を巡って内紛が発生。結局、ウイリアム1世の息子ヘンリ1世の娘、マチルダと結婚していたフランス・アンジュー伯のジョフロアの息子が、ヘンリ2世として即位しました(位1154〜1189年)。これが、プランタジネッタ朝です。 これにより、イングランド王国はノルマンディー地方を始め、アンジュー伯の領地や政略結婚でえた領地を合わせ、フランスの西半分を支配するようになります。ただし、ヘンリ2世から見れば、フランスからイングランドを支配しているといった方がよいかも知れません。彼は基本的にフランスに滞在していました。(図は1360年頃、この当時は、完全にフランスの西半分がイングランド領だった) 一方のフランス王国。これも前述しましたがカロリング家の断絶で後継者となったカペー朝は、パリ周辺にしか実権が及ばず、 そんなわけで諸侯が半独立状態でした。しかし、ルイ6世(位1108〜1137年)と宰相シュジュールは王権の拡大に成功。また、フィリップ2世は第3回十字軍をやっている最中に、同じく出陣していたイングランド王国のリチャード1世(獅子王)(位1189〜1199年)の弟ジョン(欠地王)に「兄のいない間に王位に就いたらどうだ?」と誘惑。 これは、途中神聖ローマ帝国に捕まり身代金を払うものの、何とか本国に帰還したリチャード1世が王位を取り戻し、報復攻撃を受けます。が、リチャード1世は負傷し、死亡。その後、先ほどのジョンが継ぎます(位1199〜1216年)。が、フィリップ2世の敵ではなくフランスにおけるイングランド領の大半を占領しました。 こうして、ジョンは領土の大幅な縮小を招いてしまったばかりでなく、さらにカンタベリー大司教の任命を巡り、教皇インノケンティウス3世から破門されます。1215年、貴族は失策続きのジョンに対し、マグナ・カルタ(大憲章)に調印させます。 マグナ・カルタは世界最古の憲法と言っても過言ではなく、イギリス立憲政治の出発点であります。内容を簡単に確認。 ・貴族たちの封建的諸権利を保障。 ・貴族の国王への上納金や援助金、城砦守備の義務など、封建的負担を制限。 ・商業の保護。ロンドンその他の都市の活動の自由や外国商人の通商の自由を保障し、度量衡を統一する。 ・常設の民事裁判所の設置、重罪人に対する没収方法の統一。 ・訴訟方法の確立。噂や疑惑ではなく、証人がいないと告訴できない。 ・自由人は誰でも、法律以外で命・自由・財産を勝手に奪われない。 こんな感じで三九条からなります。こういった権利関係を明示するものが憲法(基本法)です。ちなみに、日本では聖徳太子の十七条の憲法がありますが、あれは「仏教を敬え〜」などの倫理的規範を示したもの。今で言う、憲法ではありません(と、いうか、大日本帝国憲法を作る時に、昔に習って憲法という言葉を借用したわけ)。
1296年、フランス国王フィリップ4世(位1285〜1314年 十字軍の情熱をかけたルイ9世の孫)、イングランド国王エドワード1世(位1272〜1307年 ヘンリ3世の孫)に対し、教皇ボニファティウス8世(位1294〜1303年)は、お説教をします。何のお説教かというと、2人の国王が、互いに戦争するための、軍隊の経費を捻出するために勝手に教会に課税したことに対し、「勝手に税金とるな。教皇の了承を求めよ!」というものです。。 これに対し、フィリップ4世は「あ、そう。それならローマに経済封鎖してやるもんね」と、ローマに貨幣と金の流通をストップ。教皇の敗北です。結局うやむやに妥協し終わりました。 ところがさらにフィリップ4世。1301年、教皇特使で司祭のセセを反逆罪で投獄します。当然、ボニファティウス8世、「そんなこと、王様の権限外だ〜!!」と非難。翌年には、「教皇はあらゆる統治者の上に立つ!」と教書を出します。これに対しフィリップ4世、 「教皇はクビだ!」、ボニファティウス8世「は、破門してやる!」 と、破門を最後の武器にしたのですが、ついにフィリップ4世は彼を捕らえます。そして、拷問の末、ボニファティウス8世はこの世を去りました。これを、アナーニ事件と呼びます。そして、フィリップ4世は教皇庁を自領の南フランス、アヴィニョンに移します。これを、古代ユダヤ人がバビロンに連れ去れれた、バビロン補囚に例えて、「教皇のバビロン補囚」といいます。
これが、フランスの身分制議会の始まりとされています。 次のページ(百年戦争!)へ 前のページ(もう一つの十字軍・スペイン)へ |