イスラム教徒とキリスト教徒の死闘は、聖地を巡るものだけではありません。ここにもう一つ、ヨーロッパの中のイスラム・・イベリア半島奪還を目的とした国土回復運動(レコンキスタ)という動きがあります(十字軍もレコンキスタの1つとも言われている)。
まずはイスラム侵入後の、イベリア半島の歴史から見ていきましょう。
この地域はローマの属領でしたが、ゲルマン民族の大移動により、415年にゲルマン国家の一つである
西ゴート王国が建国されます。当初の根拠地は南フランスのトゥールーズでしたが、後にフランク王国を立てる
クローヴィスに敗北し、都をイベリア半島のトレドに移します。そして586年には、やはりローマ教会との関係から
アタナシウス派キリスト教に改宗。
ゲルマン法と、ローマ法の精神を取り入れた、
西ゴート法典を発布し、ローマのシステムを導入していきます。
ところが、なかなか国内は安定せず、そんな中やってきた、アラブから北アフリカにかけて大帝国を築いたイスラム勢力
ウマイヤ朝により滅亡させられます(711年)。同時にゴート族も反攻作戦を開始。これが、レコンキスタの始まりです。
さてウマイヤ朝は、732年にフランスに侵攻。しかし、
トゥール・ポワティエ間の戦いで
カール・マルテル率いるフランク王国軍に敗北。さらに739年にも侵攻しましたが敗北。「こりゃあ、これ以上は侵攻不可能だな」というわけで、以後は侵攻していません。ちなみに復習しておくと、カール・マルテルの息子
小ピピンはフランク王国の王位を取り(カロリング朝)、さらにその息子の
カール大帝はローマより(西)ローマ帝国の皇帝の位をもらいました。
で、話を戻しましょう。ウマイヤ朝は占領地域での抵抗(アラブ人を優遇したため)、
シーア派(イスラム教創始者・ムハンマドの叔父・アリーの子孫を正統とするグループ)の抵抗などにより弱体化し、アッパース朝に取って代わられます。しかし、756年にウマイヤ朝第10代カリフ(予言者=君主)の孫
アブド=アッフラマーン1世はイベリア半島に逃れ、ここに後ウマイヤ朝を建国します。都となった
コルドバを中心に、特に学術が発展します。10世紀には人口は50万人に。当時としては最大規模です。
また、かの国の中ではキリスト教徒とイスラム教徒が平和共存する一方で、914年にスペイン北部で建国された
レオン王国を中心としたキリスト教による反抗も行われていました。
10世紀の
アブド・アッフラマーン3世の時には、チュニジア地域の
ファーティマ朝と争い、北アフリカにも勢力を拡大。しかし、その後は内紛を始め1031年、後ウマイヤ朝は滅亡しまして、小国に分裂。一方、これに前後して、キリスト教徒は大規模な国土奪回作戦を展開。その中心となったのが
アラゴン王国と
カスティリャ王国です。
アラゴン王国は1035年に
ラミロ1世が建国。12世紀にはバルセロナ、13世紀にはバレンシア、さらに13世紀には両シチリア王国の王を兼ね、イタリア南部にまで勢力を伸ばします。
一方カスティリャ王国は、レオン王国から独立し、さらにそれを併合した国です。両国はお互いに南進し、一方イスラム勢力は北アフリカからムラービト朝、ついでムワッヒド朝を送りますが、なかなかキリスト教国の侵攻を防げません。
そんな中、カスティリャ王国の
イザベル王女(1451〜1504)が、アラゴン王国の
フェルナンド王子と熱〜い恋に落ちます。ちょっとここはお話ししておきましょう。
15世紀初め、カスティリャ王国の王
エンリケ4世は隣国や有力貴族と妥協し、王権を失墜させる暗愚な王でした。そこで、一部の貴族からはこの王に反対。ところが、英明な君主を選ぼうというのではなく、さらに自分たちに有利な君主を選ぼうとし、目をつけたのがエンリケ4世弟のアルフォンソ、しかし急死したため、次に姉のイザベルを選びます。もちろん彼女に力が無くては王位が奪えない。そこで、うまくアラゴン王国のフェルナンド王子と恋仲にして、結婚させます。
1474年、エンリケ4世が死去。彼は娘がいて、彼女に王位を継承させようとしましたが、貴族の反対によりイザベルが王位に就きます(
イザベル1世 位1474〜1504年)、同時にフェルナンド王子も
フェルナンド5世としてカスティリャ王に即位。イザベルに共同統治の権限を要求しますが、拒絶。まあ、それもいいか、と以後フェルナンド5世はカスティリャの政治には介入しませんでした。
これに対し、ポルトガル王
アルフォンソ5世は軍事介入。イザベル反対派貴族を使い攻略してきますが、1479年までに撃退されました。この間に、イザベルは貴族に利用されるどころか、むしろ彼らを押さえて王権を確立しました。
一方、フェルナンド5世はアラゴン王としても即位(
フェルナンド2世)。夫婦で二つの国を持っているわけで、この二つの国は連合し、
スペイン王国となります。ただし、統合されたわけではなく、「連合」であり、その後もカスティリャ、アラゴン双方での政体や法律、税制、貨幣、慣習が生き続け、一部は今も残っています。これを複合王政と、中世イタリアの評論家
マキャベリは述べています。なお、政治面で完全統合されたのは18世紀になってから。アラゴンが事実上吸収される形でした。
さて、この夫婦は双方とも優秀ですが、特にイザベル1世の手腕がすごく、中央集権化を進め財政基盤を確立。そして、1492年にイスラム勢力として、最後の小さな輝きを保っていた、
ナスル朝グラナダ王国を倒し(この王朝の宮殿が、有名な
アルハンブラ宮殿)、イスラム国家を滅ぼしました。またイザベルは大航海を目指す
コロンブスに資金援助をし、その後のスペイン海外進出の足かがりを作りました。
その後、この2人の王は、ローマ教皇アレクサンデル六世により「
カトリック両王」の称号を授けられました。カトリックについては、また次に回しますが、とりあえずここではローマ教皇派のキリスト教と解釈してください。
が、これにはちと血なまぐさいことが。イスラム国家はキリスト教も、ユダヤ教も共存させていましたが、イザベルはカトリックへの改宗を強制。ユダヤ人、イスラム教徒達はキリスト教徒になるか、殺されるかどちらかという運命に経たされてしまい、さらに本当にキリスト教徒になったか検査までされる始末になりました・・。その上での「カトリック両王」授与なのでした。
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