○マキャベリ



フィレンツェの街並み。
(写真撮影: 無料写真素材 p-fan.net
 ところで、この時期に、政治に関して後世に残る大作を出した人物がいました。「君主論」を著したニコロ・マキャベリ(1469〜1527年)です。フィレンツェの小貴族の出身で、一時的にメディチ家が追放された頃、軍事・外交官としてフィレンツェを守るべくフランスのシャルル8世に謁見するなど青年時代は忙しい毎日を送っていて、この頃の経験から「政治はどうあるべきか」を考えるようになります。

 また、傭兵からなるフィレンツェ軍が、フランス軍に大敗したことから、「傭兵を使った戦い方は古い。農民からなる軍隊を」と民兵隊を組織。これが戦果を挙げ、フィレンツェは勢力を回復しますが、1512年、スペインの支持で帰ってきたメディチ家により追放されてしまいました。よって、彼は執筆活動に専念するのですが、メディチ家との関係が修復。要職につくまでになりました。

 ところが、今度は1527年に神聖ローマ帝国皇帝カール5世(スペイン王としてはカルロス1世)の軍が侵入。再びメディチ家が追放されると同時に、マキャベリはメディチ派として追放。失意のうちに死去するという、人生を送った人物です。

 そんな彼の代表作が1513年に書いた君主論。歴史的な事実を元に、様々な君主のあり方、国の滅亡の理由などを書き、ロレンツォ・デ・メディチに献呈されました。主な内容を分類するとこんな感じです。
 ・国の形態の分類と維持の手段について
 ・攻撃と防御について軍事面の考察
 ・力量ある君主とは何か(ここで、チェーザレ・ボルジアを賞賛し、それまでの理想君主像を覆す見方をたてる)
 ・危機的状況のイタリアについてと、望まれる君主像。

具体的にどんなメッセージがあるかというと
 ・恩恵はよりよく人に味わってもらうために、小出しでやらなければいけない(第8章)
 ・人間は邪悪なもので、貴方の約束を忠実に守るものではない
 ・君主が衆望を集めるには、何よりも大事業(戦争)を行い、自らがたぐいまれなる手本を示すことである(第21章)

 そんなわけで、過激でモラルの挑戦的な彼の作品は道徳的な面からずっと批判されてきました。19世紀になって哲学者ヘーゲルが「彼の生きた数百年前からの時代背景を考えてから、初めてこの作品の価値が解る」と評価し、ようやく宗教やモラルから人間性の自立を唱えた人物として評価されるようになりました。

 彼がこの作品を著したのは、ひとえに分裂を繰り返し、神聖ローマ帝国・フランスなどの侵略を受けるイタリア統一を願ってです。ゆえに、汚い手を使っても立派に人々を統率し、強力な国家を作る君主を夢見ていました。

 とはいえ、イタリアなどという国はそもそも存在しておらず、あくまで一部知識人が持つ理想像だったようです。

○遠近法の確立

 今度は絵画の話。遠くのものほど小さく描くと、距離感が絵に出ることを私たちは知っています。この手法が編み出されたのが、このルネサンス期。1425年頃、ブルネレッスキが、フィレンツェの洗礼堂の前に、鏡を置いた画架を立て、鏡に映る建物の輪郭をそのまま書き写し、その結果、奥行きを表す直線が一点の消息点に集まることを見つけたのです。と、言葉で書くと難しいですが、意味は何となく解ったと思います。

 資料集などで確認して頂けると解りますが、これ以前の絵は、誠に失礼ながら幼い子供が描いたような平面的な絵ばかりで、これ以後は立体的、写実的になります。当時の画家は、すっかりこの手法の虜になってしまったようです。

○それでも地球は動いている

 この言葉で有名なのが、ガリレオ・ガリレイ。もちろん、この言葉は後世に作られたもの。有名な人物なので細かくは書きませんが、それまで主流であったプトレマイオスの天動説(地球を中心に太陽や他の星が動いている)に対する反論を書き上げた人です。いや、地球も太陽の回りを動いているのだと。これを地動説といいます。

 地動説を唱えたのはガリレオが最初ではありません。それより100年も前に、既に一部から疑問の声が出ていました。その最たる例が、ドイツ系ポーランド人のニコラウス・コペルニクス(1473〜1543年)です。有名なクラフク大学に学び、イタリアに留学。

 ここで、ノバラという天動説に反対する人物と出会い、1497年3月9日、共に牡牛座のα星・アルデバランの星食現象を観測。プトレマイオスの月に関する理論、つまり天動説の誤りを、ほぼ立証しました。 その後は医者としてポーランドで活躍。主要著書「天球の回転について」が印刷終了したのは、彼の死の直前でした。何故かというと、本当はきちんと天動説を証明出来なくて、出版をずっとためらったのです。

 そんなこともあり、如何せん地球中心主義の教会からは危険とされ、理論的に難しかったため、学者にも受け入れられにくく、そこでこの説を支持したガリレオの行動に注目が集まったのです。そして、彼は観測データを集め、必死に天動説の間違いを指摘。しかし、カトリック教会は宗教裁判を行い、ガリレオに対して地動説の放棄を命じます。ガリレオは失意のうちになくなりました。

 ただ、実を言うとガリレオにも責任があったらしい。実を言うと、当時のカトリック教会は、うすうす天動説の間違いに気がついていたらしいのですが、ガリレオは頭ごなしに「天動説は嘘だ!」と叫ぶ。しかも、ガリレオの理論も大成されたものではなく、結構間違い・矛盾だらけ。故にこの態度に教会が腹を立てたらしい。

 その後、ニュートンが重力などの天文力学を証明。これを使ってドイツの天文学者ゲプラーが、きちんと証明すると、ようやく受け入れられるようになりました。ただし、ガリレオ裁判の誤りを認めたのはつい最近です。この辺を詳しく書くと、科学用語満載になるので、興味のある方は自分で調べてください。

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