中世ヨーロッパを象徴する「封建社会」「カトリック教会」、この2つの存在は人々の生活、考えを束縛してきました。しかし、これが崩壊するに伴い、人間性の自由と解放を求めるようになります。それが、14世紀から16世紀に起こった
ルネサンス(再生)です。イタリアから発生し、そのご西ヨーロッパ社会全体に波及しました。
キリスト教誕生以前のギリシャ・ローマ文化を見直すことで、自分の品性の向上と、人間らしい行き方の追求を図る
ヒューマニズム(人間主義)を目指し、宗教は否定しないが現世の楽しさも追求しようと言うのが目的です。こうした考え方を持つ知識人を
ヒューマニストといいます。
ちなみに、ルネサンスという言葉は、19世紀にフランスの歴史家
ミシュレ(1798〜1874年)が使用したもので、当時言われていたわけではありません。また、当時ルネサンスとは、宗教を離れて創造された科学的なものだとか、断絶したギリシャ・ローマ文化を再発見した等と解釈していましたが、実際にはキリスト教の影響もかなり強く、さらに錬金術のような魔術にとりつかれた人々もいましたし、またギリシャ・ローマ文化は東ローマ(ビサンツ)帝国や、イスラム世界でも大事にされており、このことを全く無視した考え方でした。
そして、ルネサンスの最大の特徴とは、「人間」に重点が置かれたことであります。なお、作品について、誰が何を書いただとか、ここでは詳しくは書きません。ルネサンスについては本が出ていますから、そちらをご参考ください。
では、なぜイタリアからルネサンス運動が起こったのでしょう?
それは、まずフィレンツェ、フェッラーラ、ミラノ、ヴェネツィアなどの都市の発展があげられます。これら都市は貿易などによって経済が発展し、人口も増加、さらに貿易は東方の物や思想を取り入れます。そして、なにより古代ローマ帝国の遺跡を始め、昔の文化遺産も残っています。さらに、小都市国家のごとく国が乱立しており、各自で競争して文化を高めようとします。そして、資金面などで芸術家を保護するパトロンも多く出てきました。
有名なのはフィレンツェの
メディチ家、フェッラーラのエステ家、ミラノのビスコンティ家や
スフォルツァ家ですね。
ルネサンス期を彩る存在として、やはりメディチ家をあげないわけにはいかないでしょう。巨富を抱え、芸術のパトロンとしてあまりに有名ですが、元々はフィレンツェの北ムジェッロの農民(炭焼き)だったと言われています。その中で、どうやら薬関係の商売を始めて成功した者がいたらしく(英語のメディスンなどの語源に)、そして武器を売ったり、両替商として商売を繁盛させます。なお、この辺りはよく解っておらず、諸説あります。
メディチ家は、他の新興勢力同様、既存の貴族や門閥勢力と政略結婚を結び、社会の中枢にいきます。また、当時のイタリアでは
教皇党(ゲルフ)と
皇帝党(ギベリン)とよばれる派閥に別れて争い(皇帝とは神聖ローマここと)、貴族が没落しました。この騒動に距離を置いたメディチ家は、発展の基礎をつくることになります(もっとも、一族に多くの犯罪者を出すなどの悪行も多かった)。
特に、1393年に
ジョバンニ・ディ・ビッチが親戚の銀行を受け継いで、ぢみちに経営を行うと、他の銀行がイングランド王などを相手にした金貸しで失敗し倒産。これにより、メディチ銀行は一躍大銀行に躍り出ます。以下、メディチ家の人達を簡単にご紹介。
ジョバンニの息子コジモはフィレンツェの支配者となり、政治的・外交的にも活躍することになります。
例えば、1439年には、自らの資金提供により東方正教会とローマ教会の歴史的な会談をフィレンツェにおいて実現させ、ビサンツ皇帝パレオロゴス8世とコンスタンティノープル総主教ら700人がやってきました。フィレンツェを国際舞台にアピールしたわけです。
また、そのビサンツ帝国が1453年にオスマン・トルコ帝国によって滅ぼされると、ヴェネツィア、ローマ、ナポリ王国、フィレンツェ、ミラノの5大国の同盟を成功させ、ここにイタリアの戦争状態を終結させました。
そして、芸術普及活動にも力を入れ、先の会談の時にやってきたゲミストス・プレトンらと親交を持ち、フィレンツェにプラトン・アカデミーを設立させ、研究を行わせたり、侍医の息子であるマルシリオ・フィチーノに生活費を全面援助し、彼がやりたがっていたプラトン研究に全力を注がせ、見事プラトン学者に育てました。もちろん、プラトン以外にも様々な人文関係一般に援助を惜しまず、また建築家も保護しました。
コジモ・イル・ヴェッキオの孫。本業の銀行の方はおろそかにしてしまいますが、とにかく多才でラテン語、古典文学などあらゆる教養を身につけた人物です。
ボッティツェリ、
レオナルド・ダ・ヴィンチを始めとする芸術家と深く親交を持ち、また14歳のミケランジェロの才能を見いだし、彼を息子のように育てました。
ただ、当時パトロンとして湯水のようにお金があったわけではないため、ロレンツォは、各地で彼らに仕事を見つけてあげるように専念しました。その結果、イタリア全土で優れた文化が咲くことになります。
政治思想家
マキャベリ曰く「あらゆる君主の中で、文学と美術の最大の庇護者」。彼の代表作「君主論」は、このロレンツォに捧げられました。
政治面では、ライバルのバッツィ家が仕掛け、ナポリ王がこれに荷担した「バッツィの乱(1478年)」に対し、単身でナポリ王のところに乗り込みこれから手を引かせ、逆にフィレンツェの支配者として揺るぎない地位を築きました。ちなみに、マキャベリ9歳の時。
|
ジョバンニ・教皇レオ10世(1475〜1521年)
|
悪名高い教皇。なんと、メディチ家は教皇も輩出するほどの力がありました。1513年に教皇に選出された彼は「さあ、楽しもう」と言った人物で、お金を放蕩し、あの「
免罪符」を発行し、宗教改革を招くことになります。詳しくはまた今度。
|
カトリーヌ・ド・メディシス(1519〜1589年)
|
ロレンツォの曾孫の女性。14歳の時、政略結婚でヴァロワ朝フランス王
アンリ2世に嫁ぎます。商人の娘と馬鹿にされますが、巧みにフランス王室に溶け込み、夫の死後、30年に渡り摂政として政治を執った人物です。なお、彼女は王室の料理をイタリア料理で豊かにしたことから、後のフランス料理成立に大きく影響しました。
ちなみに、彼女の晩年はカトリックとプロテスタントが争うユグノー戦争が勃発。彼女が死去して間もなく、三男のアンリ3世が戦死し、ヴァロワ朝は滅亡しました。
コジモ・イル・ヴェッキオの弟、老ロレンツォの玄孫で、トスカーナ大公となった人物です。フィレンツェの支配者として軍備の拡張や領土拡大に成功。また、権力誇示のために建築を好みました。
中世の封建領主のごとく、領内のあちこちを絶えず視察するほど精力的に活動し、愛妻家でありました。妻エレオノーラとの間には10人もの子供が生まれました。そのため、妻が死去してからの晩年10年は女性関係がぐちゃぐちゃになり、様々なスキャンダルを起こし、ついには娘との近親相姦とまでのあらぬ噂をかけられました。
ちなみに、この頃のメディチ家の収入源は穀物や塩の流通の独占、エルバ島の鉄資源などからの巨利です。
こうして、メディチ家は繁栄を極めますが、やがて滅亡する日が来ます。コジモ1世の玄孫、コジモ3世は暗愚な人物この上ないにもかかわらず、なんと53年もの治世を行い、ひたすらカトリック信仰にいそしみます。
彼の息子達も揃って馬鹿で、しかもスケベだったため、長男の
フェルディナンドは梅毒で死亡。次男の
ジョヴァン・ガストンは怠け者で、さらに自分の目の前で美少年・美少女達に性交させたり、男に女装、女に女装させる仮面舞踏会を連日開くなど、メディチ家のお金を使い果たしました。
しかも、後継者が出来ず、こうしてメディチ家は滅亡してしまったのです。
この時期のイタリアでは、小さな勢力が入り乱れ戦い、勝つためにはどんなことでもしました。その最も最たる手段が毒殺。これを最も多く使用したと言われているのが、なんと教皇の
アレクサンドル6世(ロドリーゴ・ボルジア 位1492〜1503年)と、
チェーザレ・ボルジア(1475〜1507年)親子です。アレクサンドル6世は、買収で教皇の位を買った人物で、令嬢のルクレツィアと近親相姦の疑いを持たれるような人物。熱病で死去しますが、実は他人に入れた毒をあやまって自分が飲んでしまったとも言われています。この親子は少なくとも50名、多くて300名もの政敵や恋敵を毒殺したと言われています。
で、この教皇はイタリア半島を教皇領として統一すべくチェーザレを使い戦争を続けさせます。悪名高い教皇ですが、しかしフランス王シャルル8世のイタリア侵攻も阻止しました。
ところで、何が毒薬として好まれたかというとヒ素。それから、不衛生な食物にある腐敗菌、腐敗アルカノイドなど。ルネサンス期の時代は、そんな恐ろしい時代でした。
次のページ(ルネサンス<2>)へ
前のページ(中世ヨーロッパの都市と農村と大学)へ