○ピョートル大帝のロシア帝国


 モスクワ大公国からロシア帝国へ・・・。
 その実質的な成長を成功させたのが、ピョートル1世(大帝 位1682〜1725年)。異母兄ののイヴァン5世と共同統治として帝位につき、異母姉ソフィア・アレクセーエブナが摂政という形での体制でしたが、ソフィアがピョートルを疎んじ、なんとピョートルの妻エヴドキアが暗殺を企てたため、89年にこれを追放。96年にイヴァン5世が没し、単独の皇帝となります。

 彼の下でロシアは大いに発展を遂げます。その理由は、ピョートル自身が外国人達から数学や技術、機会や軍事・造船などの技術を学び、それを生かしたことです。とりわけ海の重要性を見た彼は、良い港を欲します。そこで1696年、河川艦隊と呼ばれるロシア最初の海軍を組織。オスマン帝国から黒海の北部アゾフ要塞を攻略し、地中海への窓口を確保。

 だが、これだけでは満足出来ない。
 なんと、彼は変名を使って97〜98年にプロイセン・オランダ・オーストリア・イギリスなどを見学。表向きは250人の使節団ですが、彼は造船工場で実際にハンマーを持って船造りを手伝ってみる。それも、40日も。そのついでに900人にも及ぶ職人や専門家を雇う。こうして、海軍を強化し、1700年にスウェーデンに侵攻。これが、スウェーデン戦争、または北方戦争というものです。経過を見てみましょう。

 まず、ロシアは後顧の憂いを無くすためにポーランド、デンマークと同盟を結び、戦争を開始します。これに対し、スウェーデンの18歳・若き国王カール12世は、デンマークにすぐに侵攻。首都コペンハーゲンを占領し、これを沈黙させます。そこに攻めてきたのがロシア軍。しかしロシア軍は、コテンパンにやられて大敗してしまいました。まだ、訓練不足だったのです。

 そこで、カール12世はポーランドに侵攻し占領。傀儡王朝を建てるのですが、元来国王の権力が弱いこの地域。貴族達が反乱を起こします。この鎮圧に、5年もかけてしまったのがカール12世のミス。その間にピョートル大帝は農民達の徴兵令を出し、軍隊を再編。また、バルト海沿岸にサンクト・ペテルブルクの建設を始め、ここを拠点とするようにします(1712年に首都になる)。

 一方で、ピョートル大帝は重税をかけすぎたため、ウクライナが反乱を起こします。1709年、スウェーデン+ウクライナ軍はロシア軍と戦いますが、再編された軍隊を前に敗北。スウェーデンは疲れ切っていました。また、ロシア海軍であるバルチック艦隊は、1714年にスウェーデン海軍を破ります。その後も戦いが続きますが、1718年、カール12世が何者かによって、背後から銃殺され死亡しました。

 その後、ようやく和平交渉。 21年にむすばれたニスタット講和で、ロシアはバルト海沿岸の大部分を確保します。その他、ピョートル大帝は、ロシア文字の簡素化、アラビア数字の導入、はじめてのロシア語新聞の発行、各種学校の設立、科学アカデミーの創設を実施、まさに啓蒙君主的な活動。また、ロシアの人々の特徴である髭を、「前近代的だ」と剃らせ、剃らない人には髭税をかけました。日本で言えば、ちょんまげから散髪、ですね。ロシアの場合、これには民衆の反発を招きました。

 その他、この時既にシベリアまで領土が広がっていたため、中国を支配していた清とネルチンスク条約を結び、国境を確定しています。シベリア開発は、16世紀からコサックと呼ばれるウクライナを発祥とする戦士集団が担いました。コサックとはトルコ語で「自由人」を意味します。その名の通り独立性が強いんです。前述した通り、ウクライナが反乱を起こしていますが、それはコサック達のことです。

 ですが、一方で戦争を遂行するために重税を国民にかけます。治世中、3回の大きな民衆蜂起が発生しています。とはいえ、ピョートルの下でようやく西ヨーロッパとの溝を縮めたのでした。

 そんな権力者、ピョートル大帝でしたが、家庭的には不幸でした。
 なんと、妻エヴドキアがピョートルの暗殺を企てて、さらに彼女との息子アレクセイもピョートル暗殺を企て死刑に(公式には死刑宣告を受けたショック死となっている)、そして、後妻で、ピョートル大帝が信用していたエカチェリーナは浮気をしていました(このため、ピョートルは彼女の目の前で浮気相手を殺すが、エカチェリーナは顔色一つ変えず、浮気を否認)。こんな状況ですから次第に孤独になり、体調も悪化していきます。

 そんな中、部下が溺れたというので親分肌を見せたピョートル大帝は、寒い川に飛び込み長時間浸かってしまいます。それを見て慌てて部下が救出するも、命取りに。1752年、これがもとで彼は53歳で死去しました。後継者は自ら指名すると定めていましたが、遺書には後継者の名前が記されていませんでした。

○女帝の時代

 そのため、妻のエカチェリーナが即位。ロシア初の女帝です。しかし、混乱が続き、37年間に6回のクーデター。4人の女帝と3人の皇帝が即位します。このうち、女帝エリザベータはモスクワ大学を創設した他、七年戦争でオーストリア・フランスと手を組みプロイセンと戦ったのは前回見た通り。ベルリンまで占領します。ところが、あと一歩でプロイセンを倒す寸前で、死去。

 甥のピョートル3世が即位しますが、彼はフリードリヒ大王のファンで講和を結んでしましました。と、そこで突然妻のエカチェリーナに暗殺される。どうやらピョートル3世に離婚されそうだったのと、「アンタみたいな馬鹿は嫌い!」と言ったところでしょうか。彼女は既によ〜〜く手なずけておいた近衛師団と手を組み、即位します(エカチェリーナ2世 位1762〜96年)。

 彼女はオスマン・トルコと戦う一方、国内においては啓蒙君主を目指し・・・たはずが、いつの間にか貴族の利益を代表するようになってしまいます。そこで、民衆が蜂起。プガチョフの反乱です。彼女はこれを徹底的に弾圧。結局彼女は啓蒙君主とはなりませんでした。どうも、ヨーロッパ風で格好良いと思って宣言してみたけど、面倒くさいわ、という感じみたいです。

 その他、彼女のもとでポーランドは3回にわたって分割され尽くされます。これは、プロイセンの方が積極的で、エカチェリーナ2世としては、当初は保護国化を考えていたようです。しかし、1763年に即位したポーランド王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキという、長ったらしい名前の元・エカチェリーナ2世の愛人は、中央集権化を進め、ポーランドの国力増強を謀ります。

 ところが、強いポーランドになるなんて、そりゃ困る!
 と、周辺国は黙って放っておくわけにはいきませんでした。そこで、第1回分割がプロイセン・オーストリアと共に行われ、これによってポーランドは国土と人口の30%を喪失してしまいます。

 これは、ポーランドの貴族達にも問題がありました。最近では底まで酷くはなかったという説が有力ですが、彼らの議会は、1人でも反対が出ると流会になるのです。こんな状況では何も決まらないですね。しかし、これ以後、さすがにどうしたものかと改革の動きを見せます。憲法を制定し、三権分立という行政・司法・立法をバランス良く配置するシステムを構築。

 しかし、さらに強いポーランドになるなんてもっと困る!
 というわけで、この動きをロシアもプロイセンも放ってはおきませんでした。こうなったら完全に併合してやると、いうわけで2度目の分割が行われ、さらに1795年の3度目の分割で、ついにポーランドは消滅させられます。

 このうちロシアは東ポーランドを支配下に治めました。
 これに対し、愛国者コシューチコらが反乱を起こしますが失敗に終わっています。

 ちなみに、エカチェリーナ2世の在位中、日本から大黒屋光太夫という漂流民がやってきます(この時の漂流民は他にもいましたが、大半が死亡)。彼は、シベリアに留め置かれた後、何とか帰りたいと思い、エカチェリーナ2世にお願いをたてる。エカチェリーナ2世も、これを機会に日本と貿易をしようと考え、彼とラクスマンを派遣。大黒屋光太夫、それから他の漂流民のうち磯吉、小市も日本に送還します(小市は根室で死去)。

 ところが、江戸幕府は貿易する気などない。ラクスマンは追い返され、折角帰ってきた大黒屋光太夫らも「ロシアでの生活のこと話すでないぞ」とまあ、監視付きの生活となり不幸な生涯を遂げました。ロシアで仕入れた思想や政治体制を喋られるのを、幕府は恐れたのです。

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