第4回 クニの興亡と邪馬台国連合

○大陸に使者を送れ!

 前述のように、弥生時代となると、人々は自分たちの生活と、ムラの神を守るために指導力のある人間をトップとして従い、集落周辺に深い堀や土塁といった環濠を作り、さらに石や金属で出来た武器を製造し軍事力を強化していきます。こうして、日本各地に「クニ」とよばれる政治的・軍事的な集団が形成されていき、争っていきます。  また、さすが有力者ともなると墓も立派で、彼らは大きな墳丘に様々な副葬品を入れられて葬られています。

 このようなクニの中で、なんと朝鮮半島に中国政府(前漢)が出先機関として設置した楽浪郡(現在の平壌周辺)に使者を定期的に送っていたところがあったようです。そのため、前漢の歴史について解説した『漢書』地理志(=日本)は100国以上に別れている・・・と紹介されています。


墳丘墓 (佐賀県 吉野ヶ里歴史公園)
いつの時代も、権力者は自分が死んだあとまで存在感を見せつけたいもの。ただ普通に葬られるだけでは満足できず、このような物を造ってしまいました。

弥生時代の実力者 (佐賀県 吉野ヶ里歴史公園)
こういう王を中心とした風景は、弥生時代からスタート。

 さらに時代は下り、中国(後漢)に使者を送ったところがあるようです。

 これは、中国の歴史書である『後漢書』東夷伝で紹介されているもので、西暦57年に、ナの国奴国)と名乗るクニの王の使者が、後漢の都である洛陽に赴き、後漢の初代皇帝である光武帝劉秀)より「良くぞ遠いところからやってきた」と印綬を授かったことが記されています。その証拠と思われる光武帝の金印が福岡県福岡市の志賀島より発見されています。どうやら、ナの国は福岡市(博多)周辺を拠点にしていた有力国だったようですね。

 さらに、西暦107年に倭国王の帥升(すいしょう)後漢に使者を送り、生口(=奴隷)160人を献上したそうです。この帥升は、外国史書に名の残る日本史で最初の人物です。なお、ここでいう倭国が奴国を指すのかは不明です。

 これらのクニが中国大陸に使者を送ったのは、当然のことながら「うちの国は、あの漢の皇帝から認められたんだぞ。」と権威を利用し、周辺のクニを屈服させる手段の1つとして利用したかったのだと思われます。もちろん、買い物も色々して帰ったでしょうから、中国から色々と珍しい文物を持ち帰ったことでしょう。


宋版後漢書
中国の南宋時代、慶元年間(1195〜1201年)に印刷されたバージョンの後漢書。原本は国立歴史民俗博物館が所蔵しており、国宝に指定されています。

宋版後漢書
 倭奴国が建武中元二年(57年)に朝貢し、光武帝から印綬を賜ったことや、安帝の永初元年(107年)に倭国王帥升らが生口(奴隷)百六十人を献上し、朝見を請い願ったこと、さらに桓帝と霊帝の間(147〜189年)に倭国大乱が起きて、何年も主がいない状態が続いたことが書かれています。
 さらに、後ほど紹介しますが、卑弥呼という名の一人の年長で嫁いでいない女子がいて、鬼神道を用いて衆を妖しく惑わしていたが、これを王に立てたと書かれています。たったこれだけの記述ですが、弥生時代の日本に関する本当に貴重な記録です。

金印 (国立歴史民俗博物館展示のレプリカ ※原品は福岡市博物館で展示)
「漢委奴国王」でお馴染み金印。(撮影:デューク)

○邪馬台国連合の成立


ヒミコ? (佐賀県 吉野ヶ里歴史公園)
謎に包まれた女王ヒミコ。殆ど人を近づけず、弟に取り次ぎをさせていたと言われる彼女は、どういう生活をおくっていたのでしょうか。また、彼女の最期は本当に病死だったのか、それとも戦いに勝てない=神の意志を聞くことが出来ていない、として引きずり降ろされたのか?など、色々な謎があります。  


 さて、その後漢が崩壊し、群雄割拠の時代を経て中国大陸は三国志の時代・・・すなわち、魏、呉、蜀(蜀漢)の時代になります。この時代についてまとめた『三国志』という歴史書の『魏志』倭人伝に、2000字程度でありますが倭国(=日本)が紹介されており、中国側の誤解もある部分もあるみたいですけど、当時の歴史をうかがい知ることが出来ます。

 すなわち、2世紀の終わりごろに倭国はクニ同士の争いが盛んになり、しかしクニたちは「そろそろ争いをやめたいのだが・・・」と考え始めます。そこで、ヤマタイ国(邪馬台国)の巫女であるヒミコ(卑弥呼)という人物を連合国家の盟主にすることに決定。こうしてヤマタイ国を中心とした約30のクニによる連合国家が誕生しました。  そのヒミコは、やはり自分の権威を高めようと考えます。
 というのも、クナ国狗奴国)が邪馬台国連合に対し戦いを挑み、卑弥呼達は苦戦していたからです。

 そこで239年、三国鼎立の中国大陸の中で最も勢力が大きかった「」に大夫のナシメ(難升米)を中心とした使節団を送ります。ナシメは、朝鮮半島の帯方郡太守の劉夏(りゅうか)の紹介によって、魏の都である洛陽へ。そして、第2代皇帝の曹叡明帝 位226〜239年)より「親魏倭王」という称号が書かれた金印(未発見)と、100枚とも言われる銅鏡など、様々な品物を受け取ることに成功します。鏡というのは当時、非常に珍しいものですから、これを持っているというのは大変価値のあることです。

 その後も、243年、247年に魏へ使者を派遣し、247年の時には張政という軍事指揮官まで派遣され、さらに魏の皇帝名による「邪馬台国を助けろ!」という檄文まで発表されますが、どうやらクナ国には効き目が薄かったようで、邪馬台国連合は引き続き苦戦。戦いのさなかにヒミコは没しました。巨大な墓が造られたとされていますが・・・さてさて、どこにあるのやら。

 そして邪馬台国連合は、男性の王をたてましたが混乱が生じ、代わってトヨ台与)というヒミコの一族の女性が女王になり混乱を鎮めました。そして彼女は266年、魏を受け継いで誕生した晋に使者を送り、中国大陸との関係を続けますが、邪馬台国はこれ以後歴史書に登場せず、どうなったのか、日本史上、最大とも言える謎を残しています。

 そもそも、邪馬台国連合の盟主である邪馬台国がどこにあるかも不明。
 『魏志』倭人伝では、邪馬台国までの距離・方角が描写されていますが、これをどう解釈するかで、いかようにも邪馬台国推定地が変化するんだそうですね。その中でも主に、北九州か、畿内(奈良県など)が有力視されていますし、北九州から次第に東へ遷っていった、という説もあります。結論が出るまで、あと何百年かかることやら・・・(笑)。

 ところで、ヒミコの名前ですが、ミコというのは巫女のことでしょう。
 ヒ、ですが、これはヒメ(女性)ということでは?という考えもあります。そうしますと、ヒミコ=女性の巫女、まあ男性の巫女はいませんけど、こういう一般名詞とも解釈が可能です。果たして彼女の本名は一体?

○謎の三角縁神獣鏡

 ちなみに、魏から送られた銅鏡はどうなったのでしょうか。
 邪馬台国連合の結束を強化するため、おそらく各地の王に配られたと思います。さて、それから時代は下った古墳時代前期の古墳、すなわち有力者の墓から「三角縁神獣鏡」(下写真 明治大学博物館蔵)と呼ばれる銅鏡が副葬品として発見されています。この鏡に、魏の地名である「徐州」や、魏の年号である「景初三年(239年)」、「正始元年(240年)」と銘文があることから、「そうだ、これがヒミコがもらった鏡に違いない」という説が提唱されています。



 そして、この鏡は九州でも出土はしていますが、近畿での出土が非常に多く、しかも出来映えも良いため「邪馬台国は近畿にあった」とする説に好材料となっていま・・・と、そうは簡単にいかないのが、考古学の難しいところ。というのも、中国では「三角縁神獣鏡」と同タイプの鏡の出土例がありません。

 まあ、広大な中国ですから、今後どうなるかは不明ですけど、いずれにせよ、もしかしたら、中国の鏡を真似て鋳造した国産じゃないのか?とも考えられます。いやいや、そんな技術は日本にはなかった、違う、中国の技術者がやってきたんだ、そう言えば出土されている鏡の数は100枚を超えているから違うんじゃない?、とまあ、議論百出状態です。

 どうなることやら。
 最後に蛇足になりますが、この時代はローマ帝国では軍人皇帝が次から次へと擁立され、そして殺されという混乱の時代、中東ではササン朝ペルシアが建国されて勢力を拡大・・・という時代です。参考までに。

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