第5回 大和政権の成立と発展

○大きな墓が造られ始めた

 前回ご紹介したとおり、弥生時代後期になると、各地に大きな墳丘をもつ豪華な墓・・・すなわち墳丘墓や、方形周溝墓(四角形を基本的なプランとし、方形に溝を掘りその中に遺骸を埋葬する墓制)が造られるようになってきます。

 この頃は、地域色の強いさまざまな形の墳丘墓が作られていましたが、3世紀半ばになると、これらの発展ヴァージョンともいえる古墳が造られるようになります。


 代表的なのは、円形と長方形の塚を組み合わせた鍵穴のような形の前方後円墳で、例えば上写真の広島県東広島市の三ツ城1号墳。御覧のように前が四角、後ろが丸いという形です。また、前も後ろも四角い前方後方墳というのもあります。

 こいつが全国で造営されるようになっていった頃が古墳時代の始まりとされています。そして、前方後円墳は次第に巨大化していき、古墳時代中期の大仙陵古墳(大阪府堺市)で最大となります。この古墳は形が前方後円墳で、墳丘それ自体の長さが486m。さらに、三重の周濠を巡らすという巨大なシロモノです。

 規模が大きい墓を造れると言うことは、それだけ権力が大きかったと考えられます。そして、この前方後円墳の分布を見ると、特に大和地方で巨大なものが多い。

 とすると、この地域に出来た勢力が特に強大だったと考えられ、実際にその後、この政権の盟主=大王(おおきみ)は現在も続く天皇家へと発展し、現在に至ることになります。

 ちなみに前方後円墳は、基本的に後円部の内部に竪穴式石室を設置し(のちに横穴式石室が主流に)、そこへ木棺を収納しました。というわけで、石室の竪穴式と横穴式の話を少々。



 まず、上写真が竪穴式石室の例。見てわかるとおり、前方後円墳の後円部に上に墓を設置しています。ちなみに、このように複数の竪穴式石室を持つ前方後円墳も結構あるようで、全ての前方後円墳が全く同じ形ではありません。
 (2枚目の写真はリン所員撮影)




 そして上写真は、古墳の横に穴を開け、石造りで通路である羨道(せんどう)と、その奥に遺体を納める玄室(げんしつ)を設置する横穴式石室の例(※仙道古墳/福岡県筑前町)です。

 横穴式石室は、朝鮮半島の影響を受けて九州で普及し、古墳時代後期に日本全国、前方後円墳に限らず、古墳のあるところでは一般的になりました。このタイプは追葬、つまり空いているスペースに後で他の遺体を安置することも可能です。この古墳の場合、さらに赤い丸などが描かれており、装飾古墳という形態でもあります。


神明上遺跡の横穴墓 (東京都日野市)  一般的な墓になると、山や丘の斜面をくり貫いて墓を作っていました。写真は、横穴墓の上部を剥ぎ取り、上から眺めたもの。写真上側が入り口に当たり、羨道とよばれる通路、そして写真下側の玄室につながります。
 御覧の様に、遺体を安置する場所だけに石が敷き詰められています。おそらく左側に1人、右側に1人埋葬されたことでしょう。同時に葬られたのか、追葬されたのかは不明です。

○様々な墳丘墓と古墳の形


復元された円墳 (千葉県 房総のむら)  
現在我々が目にする古墳は木々に覆われているため、いまいちイメージがつかみづらいですが、元々はこんな感じであったと考えられています。写真は古墳の一種である円墳。

復元された古曽志大谷1号墳 (島根県松江市)  
 こちらは前も後ろも四角い形の前方後方墳。多くの古墳は、このように「葺石(ふきいし)」といって、墳丘の斜面が崩れるのを防ぐために石を敷き詰めました。そして、このように出雲地域でも巨大な古墳が沢山あり、ヤマトと並ぶ一大勢力があったことが容易に推測できます。


 ところで、これまで紹介したように円墳や、四角い形の方墳など古墳には色々な形があると聞いているんだけど・・・という方もいらっしゃると思います。もしくは、前方後円墳っていうのは円墳と方墳が合体して成立したものでは?思われている人もいると思います。

 しかし、前方後円墳以前の墳丘墓は、円墳や方墳のようなシンプルな形ではなくもっと独特の形のものが多いんですね。例えば、双方中円形、四隅突出墓(その字のとおりですが、いうなればアメーバみたいな形のようなタイプのもの)などです。


西谷3号墓 (島根県出雲市)  
四隅突出墓の例。横から眺めた姿で恐縮ですが、このように角部分が特殊な形になっているのが、ご理解いただけますでしょうか?


 前方後円墳の成立に円墳・方墳連結説を唱えた学者さんも確かにいました(梅原末治さんという著名な研究者)、ですが、前方後円墳の成立以前に円墳・方墳が盛行していた形跡は認められず、この説は否定されています。では、円墳や方墳っていつ頃のものなの?と言うと、これらはそのほとんどが後期群集墳、終末期古墳なんです。

 ちなみに、古墳全体に占める後期群集墳、終末期古墳の割合は実は9割以上に上るんですよ。
 だ、そうです。
 時代が進むと古墳が小型化する一方で、かなり一般化した、ということでしょうか。

○古墳を彩るものたち

 ところで、古墳は現在は樹木に覆われた小丘陵のような形をしてるのが多いですが、かつては綺麗に石に覆われていたと考えられるんですね。兵庫県の五色塚古墳なんか、その姿をで復元されてます、とのこと。

 それから、古墳に良く見られるのが埴輪(はにわ)の存在。その種類は大別して円筒埴輪形象埴輪があります。このうち形象埴輪は時代によって流行が色々代わりますが、家、器財、動物、人物などをイメージとして作成された埴輪です。


復元された埴輪 (千葉県 房総のむら)
人形(ひとがた)や土器の形など、一般的に皆さんが想像するタイプの埴輪はこんな感じではないでしょうか。


茶臼山古墳の埴輪 (山口県柳井市)
こちらは家の形をした埴輪も含まれています。


仙道古墳の盾持武人埴輪 (復元/福岡県筑前町)

岩戸山古墳の石製埴輪 (福岡県八女市)


 何でこんなものを古墳に設置したか、ということはまだよく解っていないみたいですね。しかし、特に形象埴輪のおかげで、当時の人たちがどんな服装をしていたのか、とか、どんな家に住んでいたのか、などを推測することが可能です。特に家型埴輪を見れば、当時の家がどんな屋根の形だったのかなんてことも解ります。

 それから、古墳時代前期の古墳へは、三角縁神獣鏡などの鏡や、管玉や勾玉など装飾品類、鉄製の武器や農耕具が副葬品として納められていましたが、古墳時代中期になると武器や防具、さらには馬具といった軍事的製品が副葬品の多くを占めるようになり、古墳に埋葬されている権力者が、次第に宗教的指導者から軍事的・政治的指導者的な性格も併せ持つようになってきたと考えられます。ちなみに、馬が外国から日本に輸入されてきたのもこの頃です。

 今回は前方後古墳が造られるようになった3世紀後半から、前方後円墳が造られなくなった7世紀までを見ていきます。なお、この時代はまだ非常に多くの謎に包まれており、参考となる文献も『古事記』『日本書紀』(まとめて記紀と呼ばれることも)、七支刀銘文(=刀剣に彫られた文 369年の作)、高句麗好太王碑文(414年)など朝鮮側の歴史書や碑文、埼玉県の稲荷山古墳鉄剣銘文(471年)、熊本県の江田船山古墳銀象嵌鉄剣銘文、中国の歴史書である『宋書』倭国伝ぐらい。

 このうち、古事記と日本書紀は奈良時代に作られたものですが、どこまでが伝説でどこまでが史実か非常に解りづらい。また、各地の神社にも怪しげな古文書が色々眠っており、こういうのを持ち出して「こっちが史実だ!」という研究者(アマチュアを含めて)もいますが・・・これは江戸時代などに偽作された物も多く、決め手に欠けるものが殆どです。

 ともあれ、この数少ない文献どうしを上手く対応させ、「なるほど、これは日本書紀と宋書『倭国伝』の両方に登場するな」とか、各地にある古墳を見ながら当時の状況を推測したり・・・と、この時代の研究が進められています。

 ちなみに、全体的な流れをざっと書いておくと・・・。
 邪馬台国連合との関係は未だ不明ながら、大和地方に強力な力を持った連合政権が4世紀後半までに登場します(大和政権)。そして、この政権は朝鮮半島とも深い繋がりを持ち、4世紀末には朝鮮半島に軍を送るほどの力を持っていました。

 そして、吉備や出雲といった強力な政権も服属させるようになり、さらに中国南部のという国に、倭の五王と総称される5人の大王(おおきみ)が、盛んに朝貢の使者を送り、倭や朝鮮南部の支配権を認めてもらうことで、政治的な立場を他勢力に対して有利にしようとしました。


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