第7回 大化の改新と白村江の戦い

○白村江の戦い

 661年、新羅と唐の連合軍に攻められた百済が、ついに滅亡してしまいました。
 しかし、百済の残党軍は再起を図り、日本に人質として来ていた百済の皇子、余豊璋の百済送還と日本からの援軍を要請します。当時の日本は、斉明天皇が没し、中大兄皇子が天皇位には就かず政治を主導し始めた時でした(この政治体制を称制といいます)。中大兄皇子は、「よっしゃ、百済を復興させよう!」と考え、兵を動員することにしました。

 まずは662年、余豊璋を百済へ送還すると同時の派兵を実施します。そして翌年に兵力増強し、
 阿倍比羅夫率いる日本&余豊璋率いる百済連合軍
  VS
 新羅&劉仁軌率いる唐の連合軍
 による海戦が始まりました。
 これを、白村江の戦い(はくすきのえ)といいます。その結果は、日本・百済連合軍の見事な敗北で、余豊璋は高句麗に逃れ、行方不明に。これによって、ついに百済は歴史から姿を消しました。

 さあ、真っ青になったのは北九州の長津宮にいた、中大兄皇子です。
 余勢を駆って新羅、唐の連合軍が日本に攻め込んできたらひとたまりもないぞ! さあ、どうした!と、いうわけ。おまけに、全ての豪族が百済寄りの姿勢であったわけではないので、「負け戦によくも出陣させたな!」と、中大兄皇子への責任問題も浮上する恐れがある。いやいや、そもそも全ての土地と人民は国のものだ!という公地公民という強烈な中央集権政策の評判が良かったわけではなかった。

 そこで、豪族達から人気のあった同母弟の大海人皇子を取り立て、自らの権力基盤を固めることにしました。また、官位を19から26に増やし、より多くの中小貴族・豪族に朝廷へ進出する機会を増やします。また、公地公民・・・の原則を許し、民部(かきべ)・家部(やかべ)など私有民を部分的に認めることにしました。

 こうした、それまでの路線を修正した改革案を、「甲子の宣」(かっしのせん)といいます。
 これは一定の評価を得ることが出来、なんとか国内の不満を抑えることが出来ました。そして、海から唐・新羅に攻められては困る、ということで都を東へ遷都することに。不満の声は高かったようですが667年、近江大津宮へと移しました。

 さらに同年、中大兄皇子はついに即位します(天智天皇)。さらに、これだけでは安心できない天智天皇は、現在の福岡市の南に大野城と、長い城壁である水城(みずき)を築城し、ここに常駐の軍隊である防人(さきもり)を配置(兵士は主に関東から徴発)。また、この頃に大宰府(だざいふ)と呼ばれる九州における大和政権の政庁を本格的に整備したようです。

 この他に、長門城や屋島城など、朝鮮の技術を取り入れた朝鮮式山城を西日本各地に築城させています。

○天智天皇の死

 こうして危機に備えた天智天皇の改革はまだ続き、670年に庚午年籍という日本初の全国的な戸籍を作成・・・し始めたのか、し終わったのかは不明ですが、とにかくいつかしら完成したのは間違いない(笑)。人民の氏姓、本籍はどこか、身分の良賤は、とこういったのを記録したようです。残念なことに、せっかく永年保存扱いであったにもかかわらず、平安時代中期以降の存在はハッキリしておらず、現在は見ることが出来ません。

 それから、その1年前である669年に中臣鎌足が死去しますが、死の直前に大織冠(正一位相当)と藤原の氏(うじ)を授け、天智天皇はそれまでの功績に報いました。以後、戦時中の近衛文麿内閣に至まで、日本史に大きな影響を与える藤原氏の誕生です。

 さて、こうして意欲的に政治に取り組んだ天智天皇ですが、671年に死去してしまいました。
 順番を並べ替えると、近江大津宮遷都(667)、中臣鎌足死去(669)、庚午年籍(670)、天智天皇死去(671)となりますが、天智天皇の後継者を誰にするか、という問題がありました。当時の風習と人気から言えば、どうも天智天皇の弟、大海人皇子が妥当といったところだったのですが、天智天皇は息子である大友皇子を即位させたかった。

 そこで大友皇子を新たに設置した太政大臣(だじょうだいじん)という、行政の最高位のポストに就任させるなど、大海人皇子を冷遇。怒った大海人皇子は宴会の席で槍を持って暴れるなどしましたが、これまで政敵を何人も倒してきた天智天皇です。実弟だろうが、どういう扱いをされるか・・・。というわけで、出家し、坊さんの姿になって隠居しました。

 こうして天智天皇は安心して世を去るのですが。
 世の中、そうは甘くない。てなわけで、次回に続く。

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