第8回 壬申の乱と天皇の誕生

○大友皇子VS大海人皇子

 さあ、672年。叔父VS甥の熾烈なバトルがスタート! 壬申の乱(じんしんのらん)、というやつです。皇位継承権を持つ皇族が鎧兜つけて殺し合いをするというのは、大きな争いではこれが最後。

 さて、まずは大海人皇子は当初、奈良県南部の吉野に隠居していましたが、密かに美濃(岐阜県)へ脱出します。いったん、朝廷の直接的な支配下から離れたわけですね。ここで、これまでの政治に不満があったり、没落した豪族などを味方につけ、不破関(岐阜県関ヶ原町)、鈴鹿関(三重県鈴鹿市)などの交通の要所を押さえます。また、長男である高市皇子、それから大津皇子などの息子も駆けつけました。

 これに対し、大友皇子(弘文天皇)は右大臣の中臣金(なかとみのかね)、左大臣の蘇我赤兄を中心に対策を協議し、有力な豪族達に軍を組織させます・・・が、こうした努力もむなしく、約1ヶ月の戦いの末に大海人皇子の軍勢が勝利し、大友皇子は自殺。25歳の短い生涯を終えました。また、中臣金ら8人は死罪に、蘇我赤兄らを流罪に処されました。これ以後、中臣氏、蘇我氏の多くは没落していったようです。

 そして大海人皇子は673年に都を飛鳥浄御原宮とし、天皇に即位しました(天武天皇)。
 ちなみに、先ほど没落した豪族と書きましたが、ここで華麗な復活劇を遂げたのが大伴氏。あの、大伴金村失脚後、物部氏や蘇我氏に追いやられ、一部例外を除けば随分と長く中央政界へ復帰できませんでしたが、大伴馬来目(望多 まくた)、大伴吹負(ふけい)兄弟が大海人皇子の軍勢に参加し、朝廷の軍事を担当していた特性を遺憾なく発揮。再び、貴族名門として勃興しました。
 *ちなみに、大伴馬来目の兄である大伴長徳(ながとこ)は孝徳天皇政権下で右大臣でしたが、長徳の没後、馬来目たちは不遇だったようです。

○天武天皇の政治

 さて、こうした政変劇によってこれまでの有力氏族が没落。
 こうなると天武天皇は中央集権体制をより前進させることが可能になりました。そこで、地方行政区画の整備、班田収授のための造籍・測地を進め、さらに再び私有民を禁止。さらに、684年に八色の姓(やくさのかばね)を制定します。これは、真人(まひと)・朝臣(あそん)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)・道師(みちのし)・臣(おみ)・連(むらじ)・稲置(いなぎ)の8種の姓。

 導入の狙いと仕組みですが、豪族達をランク付けすることにありました。
 例えば、真人(まひと)は天皇の近親者のみに与えられ、朝臣(あそん)は中臣氏などの一部例外を除き、それまで天皇の子孫と称していた豪族に与えられます。あとは、豪族達に出自によって割り振りましたが、このように天皇家一族を上位のランクインさせたのです。

 それから大和政権の時代から、服属した豪族達に、鏡や太刀などの宝物を献上させ、石上神社というところへ保管してきましたが、これを返還することで融和策を採り、また積極的に、朝廷の役人になろうと呼びかけます。

 さらに飛鳥浄御原令という日本初の統治体系に関する法令を制定し(ただし、現存していないため不明な点が多い)、さらに6年ごとに戸籍を作成させるようにします。

 また、これまで「大王」だった称号を、実はこの段階で初めて「天皇」と改めました。これは、唐の高宗(位650〜683年)が自称していたもので、中国の伝説上の帝王の1つのことでもあります。おそらく、これを聞いて「格好良いなあ」と思ったんでしょうし、唐と親交を保ちつつも、ただの朝貢国ではないぞ、という意思表示もあったんでしょう。それから、これまでの土下座のような礼の仕方から、立ったままで礼をする、今のような形に改めたのも天武天皇でした。

○後継者争い


 こうして数々の改革を成し遂げた天武天皇でしたが、それぞれ母が違う多くの息子達が対立しないかどうか不安だったようです。その不安を残したまま、686(朱鳥元)年に没しますが、その不安は見事に的中してしまいました。

 まず、天武天皇死後にもっとも権力を得たのが、讃良皇后でした。彼女は、天智天皇の娘であり・・・え〜、つまり叔父と結婚したわけですが、ついでに、その姉も天武天皇と結婚していたわけですが・・・。

 その姉と、天武天皇の息子で、有力な皇位継承者候補だった大津皇子を謀反の容疑で逮捕し処刑するという行動に出ます。そして、讃良皇后は自分の息子である草壁皇子を即位させようとしますが、なんともはや、彼は直ぐに病死してしまったのです。

 それでは、他の皇子に皇位が・・・と行くと思いきや、讃良皇后はそうはしない。
 草壁皇子の息子、つまり自分の孫の軽皇子(当時7歳)が大きくなるまで、自分が天皇として即位しました(持統天皇)。そして、天武天皇の政治改革を引き継ぎ、全国の国司(くにのつかさ/こくし)という、中央から派遣された地方のトップに新たな戸籍である庚寅年籍を作成させます。

 さらに、日本初の本格的な都城である藤原京を造営し、694年に遷都しました。そして697年、それまでの習慣を破り、まだ自分は存命であるにもかかわらず軽皇子に天皇の座を譲ります(文武天皇)。

○大宝律令

 701(大宝元)年には、飛鳥浄御原令の完成形である大宝律令を公布。律は刑法、令は行政法・民法にあたります。つまり、先ほどの飛鳥浄御原令は刑法の部分がなかったので、それを追加したわけです。

 また、この大宝律令で正式に二官八省体制がスタート。
 太政官・神祇官と、中務省(天皇の政務を保佐)・式部省(役人の人事)・治部省(外交と寺院)・民部省(戸籍と租税)・兵部省・刑部省・大蔵省・宮内省という行政組織であります。また、警察機能を有した弾正台や、九州を中心とした西日本における朝廷の根拠地である大宰府(だざいふ)等も含みます。

 さらに、中国の郡県制に倣って国の下に、を設置します。今は郡について意識することは殆どないかもしれませんが、国が現在の都道府県、郡が現在の市といったところ。日本書紀では、646年の大化の改新で設置したとしていますが、当時は「評」(こおり)と表記していました。ともあれ、これまで地方の有力豪族(国造=くにのみやつこ)が地方を支配していた体制から、朝廷の役人が派遣されて統治する体制へ移行することになります。

 ちなみに、奈良時代前期には555郡、平安時代前期には591郡あったそうです。ちなみに、郡の下には郷、里という行政単位が置かれています。

 こうして国家体制を完成させ、自分の孫に皇位を譲ることに成功した持統天皇は、702(大宝2)年に58歳で死去しました。

 以下、余談。
 草壁皇子の后、すなわち文武天皇の母というのも、天智天皇(中大兄皇子)の娘なんですね(系図参照のこと)。あんれ、讃良皇后も天智天皇(中大兄皇子)の娘。てなわけでまあ、この時代というのは凄まじい婚姻関係ですね・・・。以前、蘇我氏が天皇と姻戚関係を結んだことから、権力を拡大したことへの反省だったのかも知れませんが、いやはや。

 それから、持統天皇の時代に着実に権力を獲得していったのが、藤原不比等。そう、中臣鎌足の息子です。幸いにも、壬申の乱の時には幼少だったため責任を問われれませんでしたが、親父の功績を元に出世と、そう単純にことは進まなかったようで、自身で持統天皇に接近することで引き立てられていき、刑部親王(天武天皇第9子)と共に、大宝律令の編纂に大きく尽力しました。ていうか、実質的に仕切っちゃいました。こうして藤原氏大発展の基礎を作ります。

 ところで、不比等のオヤジである中臣鎌足ってのは何をやったのかハッキリしない人物らしい。
 中大兄皇子への接近と出会いの伝説は、新羅(しらぎ)の列伝に類似の記事もあることから、中臣鎌足の功績は、後に藤原氏が着色したもの、という説も有力です。

○国府と郡衙

 さて、国と郡についてもう少し詳しく見ていきましょう。国には国府、郡には郡衙と呼ばれる役所が設置されます。


 国府の中心で、政務機関の役所群を国衙(こくが)、さらにその中枢で国司が儀式や政治を行う施設を国庁と呼びます。形状は地域や時代で様々ですが、基本的に国庁は板塀や築地塀や溝で区画し、南側に門を置くスタイル。


 一方、こちらが郡衙の中枢部である郡庁の形状。こちらは実に多種多様な形状ですね。


 模型で推定復元された都築郡衙の様子。現在の神奈川県横浜市青葉区にありました。模型左手が正倉域、真ん中下が館域、真ん中上が郡庁域、右手が厨域。
(図と模型は横浜市歴史博物館にて撮影)



 こちらは現在の静岡県藤枝市南駿河台にある、志太郡衙(しだぐんが)跡。1977(昭和52)年に住宅を造成する際に発掘されたもので、掘立柱建物10棟、門(2箇所)、板塀、井戸、道路の跡が確認され、幸いにもこれを破壊することなく整備が行われました。国府を復元整備する例は多少ありますが、郡衙をここまで大規模に復元展示するというのは非常に珍しい。当時の行政組織を知るうえで、非常に貴重な場所です。

次のページ(第9回 聖武天皇と藤原一族)へ
前のページ(第7回 大化の改新と白村江の戦)へ

↑ PAGE TOP

data/titleeu.gif