第9回 聖武天皇と藤原一族

○元明天皇の即位


 さて、文武天皇が即位し、持統天皇も安心して世を去ったわけですが、やはり近親結婚は寿命の短い子供が出てしまうのか、707(慶雲4)年に彼は亡くなってしまいました。

 そこで、後継者が問題となるのですが、文武天皇の息子だった首皇子(おびとおうじ)は当時7歳でした。

 他には、まだ天武天皇の息子も多数いたのですが、草壁皇子の奥さん=首皇子の祖母としては、自分の孫を将来的に即位させたい。そこで、自分は天智天皇の娘だったことから、自ら即位します(元明天皇)。

○物々交換から銭経済へ・・・?

 ところで、この頃から、それまでの物々交換に加えて、銅銭を使った商取引がスタートします。

 有名なのは1999年に発見された富本銭(7世紀後半に使用?)。それから、708(和銅元)年に発行されたことが解っている和同開珎ですね。こうした貨幣・銅銭はその後、皇朝十二銭と総称されるように、957年発行の乾元大宝まで、何回かに分けて発行されます。


皇朝十二銭の一例 (国立歴史民俗博物館にて)  1番が和同開珎、2番が760年の万年通宝、3番が765年の神功開宝、4番が796年の隆平永宝です。

 もっとも、朝廷が畜銭叙位令、すなわち銭を貯めたら官位をやる、という凄まじいPRを行ったにもかかわらず、近畿以外ではそれほど普及しなかったようで・・・。そのくせ、偽金も多く鋳造されたため、なかなか貨幣の信用力は高まらなかったようです。

○平城京遷都!

 710(和銅3)年、元明天皇は律令政治を行う新しい中心地として、奈良盆地の北側に都を遷都します。これによって完成したのが唐の長安をモデルに造られた、平城京、そしてその中枢である平城宮

 街並みは碁盤の目状に区画整理された条坊制で、都の東西に官営の市(いち)を設置。そして中心には幅75mの朱雀大路が、さらに、その奥には、天皇の住居や政治の中心である平城宮を設置しました。ここに、いわゆる奈良時代がスタートします。

 ちなみに、幅75mの道路って物凄く広いんですよ。一般的によく見られる、現在の自動車が行き違いがなんとか可能な程度の道路の幅が4m。その15倍以上の広さですから、恐るべし大通りです。また、平城京自体は、東西4.3km、南北4.8kmぐらいの大きさ。

 実際に奈良を旅行された方なら解ると思いますが、かなり離れている興福寺も薬師寺も平城京の敷地の中に存在していた寺なんですよ。なお、モデルとなった長安と比べると、2分の1程度の広さです。


平城宮羅生門 (復元模型。国立歴史民俗博物館にて)
平城京の入り口である羅生門。

薬師寺伽藍 (復元模型。国立歴史民俗博物館にて)
羅生門をくぐり、 74mの幅がある朱雀大路をしばらく歩くと左手に薬師寺が見えてきます。

薬師寺東塔 (奈良県奈良市)
天武天皇が発願し、持統天皇が建設させた飛鳥の薬師寺は、平城京遷都でここへ引越ししました。なんと、730年に建てられた東塔が今も現存しています。

薬師寺西塔 (奈良県奈良市)
西塔は長い間失われていましたが、1981(昭和56)年に復元。薬師寺東塔も建築当初は、このような鮮やかな色彩で塗られていたと考えられています。

平城宮朱雀門 (奈良県奈良市)
さらに北へ、羅生門から朱雀大路を4km歩くと朱雀門があります。そして、この朱雀門をくぐると天皇の住まいや、政治や国家的儀式を行う平城宮がありました。なお、現在の朱雀門は1998年に復元されたもの。

平城宮 (復元模型。国立歴史民俗博物館にて)
朱雀門をくぐると、この風景。国の中枢を担う様々な施設が建ち並んでいます。

平城宮大極殿 (奈良県奈良市)
大極殿は朝廷で最も重要な儀式の空間。恭仁京(くにきょう)遷都までは朱雀門の奥にあり、後に奈良に都が戻ってからは東側へ移動し、壬生門北に置かれています。上写真は奈良建都1300年を記念して2010(平成22)年に復元された第一次大極殿。


唐招提寺講堂 (奈良県奈良市)
薬師寺の北にある唐招提寺。講堂は何と、平城宮の東朝集殿を移築改修したものです。


 さて、奈良時代の朝廷は、国力の充実に努め、周防の銅や陸奥の金といった鉱山資源の開発を進め、さらに地方でも良質な織物が作れるように技術者を派遣。出来上がったものは中央に献上させるようにします。そして、国土の拡大を狙って東北へ進出。

 既に7世紀、斉明天皇の時代には阿倍比羅夫が飽田(秋田)へ進出し、現地の蝦夷(えみし)を服属させていましたが、さらに8世紀になると、出羽国を設置し、中心として秋田城(秋田県秋田市)を築城。一方で太平洋側には多賀城(宮城県多賀城市)を置き、東北経営の拠点としました。

 九州では鹿児島方面へ進出し、大隅国を設置したほか、屋久島や種子島まで服属させました。


秋田城復元模型 (秋田県秋田市)
 秋田城は蝦夷の支配を目的とした軍事的拠点や、地域の行政機能としての役割のほか、発掘調査からは中国東北部にあった渤海国(698〜926)との交流が伺えるため、渤海使や北方民族との外交施設としての役割を持っていたという説もあります。
 878(元慶2)年には、朝廷の苛政に対して夷俘(蝦夷)が反乱を起こして秋田城を一時占拠(元慶の乱)。間もなく乱の鎮圧と懐柔が行われますが、939(天慶2)年にも夷俘(蝦夷)が反乱を起こして、秋田城と交戦したといわれます。10世紀後半には古代城柵としての機能は失ったとみられます。

秋田城 (秋田県秋田市)
こちらは外郭東門。1998(平成10)年には発掘調査に基づき、外郭東門と築地塀の復元などが行われたほか、2016(平成28)年には秋田城跡歴史資料館が開館しています。

秋田城 (秋田県秋田市)
政庁第1期(733〜770年頃復元模型)。政庁は時代によって建物に変遷がみられます。


秋田城 (秋田県秋田市)
なんと水洗トイレがありました。秋田城の城外南東側の鵜ノ木地区、寺院兼客館(迎賓館)と考えられる建物群の北側にあたる沼地の岸辺にあります。

秋田城 (秋田県秋田市)
水洗トイレ復元模型。排泄物は沈殿槽にいったん貯まり、上澄みだけが沼地に流れるという画期的な構造。

秋田城 (秋田県秋田市)
トイレでは、このような糞べらが使われました。

多賀城 (復元模型。国立歴史民俗博物館にて)
この模型は780(宝亀11)年、伊治呰麻呂の乱で一時焼失した後に再建された姿。伊治呰麻呂(これはり/これはる の あざまろ)は蝦夷の指導者で、この乱の後の動静はよくわかっていません。

○日本書紀と古事記

 さて、政治的な話に入る前に、「古事記」と「日本書紀」の編纂(へんさん)が終わったことから始めたいと思います。

 この2つの書物は、合わせて「記紀」と呼ばれることもあるもので、要は歴史書。そして、今の天皇家の正統性を証明するために書かれたものです。

 いずれも天武天皇の時代に作成が始まったと言われ、「古事記」の方は朝廷に古くから伝わっていた「帝紀」「旧辞」という歴史書が、次第に誤った解釈がされ始めているぞと天武天皇が考え、自ら検討を加えたものを稗田阿礼(ひえだのあれ)に暗唱させるようにしたものが編集のキッカケ。

 それを元明天皇の時代に、太安万侶(おおのやすまろ ?〜723年)が書き取り、編集し、712(和銅5)年に献上されました。もっとも、稗田阿礼については性別不詳、そもそも存在自体もやや疑問符も付くようで、「古事記」自体も平安時代に作られたんじゃないか説もあります。

 何はともあれ、稗田阿礼という名前にはインパクトがあり、私は高校時代、友人と長渕剛の「乾杯」の一節にあった、「君に幸せあれ」を、「君は稗田阿礼」と替え歌して笑い合っていましたね。へっへっへ。どうでもいい話です。

 で、「古事記」の内容ですが、天皇家初代の神武天皇から、推古天皇までの話が書かれており、特に古い時代の記述に重点がおかれています。

 一方、「日本書紀」は720(養老4)年、舎人親王(とねりしんのう 676〜735年/天武天皇の子)を中心に編集されたもので、「古事記」と違い、より政治的な話が重点的に描かれ、さらに異説も数多く掲載し、さらに中国の書物なども参考に執筆されています。仏教伝来についても古事記では無視されていますが、日本書紀ではしっかりと記されています。また、こちらは持統天皇まで記述しています。

 なお、これらは古代を知る上で大変参考になる資料で、我々が知っているこれまでの歴史は、この2つの書物を主に参考にしますが、なにしろ天皇家の正統性を強調するために書かれたものであるため、果たしてどこまで信用して良いか難しい面があります。とくに、日本書紀では、正確な暦の知識もなく、○○年に○○が起こった・・・と編年体で記されているため、ちょっと怪しいです。



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