第9回 聖武天皇と藤原一族

○聖武天皇即位まで


木簡 (もっかん)
 7世紀前半頃から使われた、木製のメモ用紙(?)。木を加工し、文字が書きやすいようにしました。官人の召喚文や物品請求書だとか、税物を都には運ぶための物品付札・荷札など幅広い用途で使われました。
 当時のメモ書きのようなものも出土しており、人々の「ホンネ」を知ることが出来る貴重な資料でもあります。なお、長屋王邸宅跡と二条大路跡から併せて11万点もの木簡が見つかったことは大きなニュースに。  


 さて、これまで皇族や物部氏や蘇我氏など、数々の勢力が争い、時にはバランスを保ちながら政治が運営されてきましたが、いよいよ奈良時代から藤原氏が政権基盤を盤石にすべく、動き出します。まずは中臣鎌足の子、藤原不比等は、皇室と深い繋がりを持つことで、政権基盤を強化しようと考えます。

 そこで自分の娘である藤原宮子を文武天皇に嫁がせ、さらに光明子を、のちの聖武天皇である首皇子に嫁がせます。

 もちろん、藤原不比等としては早く、首皇子を天皇として即位させたかった。ところが、そうした動きを危険だと考える勢力も強く、715(霊亀元)年、元明天皇が「体調不良なので、位を譲る」と表明した時、既に15歳だった首皇子に皇位は回ってこず、代わりに文武天皇の姉が即位しました(元正天皇)。結局、不比等は首皇子が即位する姿を見ることなく死去します。

 そして724年になって首皇子は即位します。以下、聖武天皇としましょう。
 この聖武天皇を支えたのが、天武天皇の孫かつ、高市皇子の息子である長屋王と、藤原不比等の4人の息子、武智麻呂(南家)・房前(北家)・宇合(うまかい:式家)・麻呂(京家)の4兄弟でした。( )内は、この子孫達が、激しく出世競争をしますので、藤原氏を区分するためのものです。

 しかし、長屋王は草壁皇子と元明天皇を両親にもつ吉備内親王と結婚し、有力な皇位継承者の1人として依然として注目を集めていたので、藤原4兄弟としては邪魔な存在でした(もっとも、長屋王は藤原不比等の娘との間にも子をもうけていましたが)。

 おまけに、光明子が聖武天皇の子を生んで、藤原4兄弟は、すぐさまこれを皇太子にたてることには成功したものの、残念なことに直ぐに亡くなってしまう。おまけに、聖武天皇の他の妃も息子を産んでしまったのです。この子が将来、天皇になってしまえば藤原氏が権力をふるえる確率が減ってしまいます。 

 さあ、どうしようか。そうだ、光明子を皇后にすればいい。そうすれば彼女を通じて、大きな力を持てる。
 いや、しかし皇后はいざというときに臨時で政務をみたり、天皇に即位するから、皇族以外が皇后になった例はないぞ、特にあの長屋王が反対するに違いない。ならば・・・殺すまでよ。

 というわけで729(天平元)年、長屋王を謀反の容疑で逮捕。
 あまり彼は人望がなかったのか、舎人親王にも取り調べを受けた末、吉備内親王らと共に自殺しました。
 これを長屋王の変といい、光明子は皇后になりました(光明皇后)。

 ところが、藤原4兄弟は疫病(えきびょう)、つまり流行病で相次いで亡くなってしまう。
 残された息子達はまだ若く、聖武天皇は藤原氏に気兼ねすることなく、元・皇族である橘諸兄(もろえ 684〜757年)をトップに据え、吉備真備、僧の玄ム(げんぼう)などのお気に入りを取り立て、自ら政治を行うようになります。これに対し740(天平12)年、藤原宇合の息子、藤原広嗣が「真備と玄ムを追放せよ!」と九州で反乱を起こしました。

 ですが、そんな早まった行動に他の藤原一族は同調せず・・・。
 孤立無援のまま、今の長崎県の五島列島まで逃亡した末、処刑されました。ああ・・・。

 え、なんでわざわざ九州から反乱を起こしたんですか、って?
 それは当時、彼が大宰少弐(だざいのしょうに)として、大宰府に赴任していたからです。九州の大宰府ともなると、いくら西日本における朝廷の根拠地とはいえ、当時としては中央から遠く離れた場所ですから、左遷された気分だったんでしょうね。

○大仏を造ろう

 藤原広嗣の乱を鎮圧した聖武天皇ですが、すっかりこれで精神的に参ってしまったらしい。

 政治には関心を示さなくなり、平城京を捨て、都を作りながら旅行をするという、何とも人騒がせな行為に出ます。すなわち、伊勢や美濃、近江を経由し、そして恭仁京(くに 現・京都府加茂町)、紫香楽宮(しがらき 現・滋賀県甲賀市)、難波宮(なにわ)、さらに紫香楽宮へ戻ります。

 注:このため、何と優柔不断で臆病な天皇だ、と従来は説明されてきたのですが、近年の研究で、かつて天武天皇(大海人皇子)が、壬申の乱で行軍したルートと同じである上に、出発日の干支も、天武天皇が吉野で挙兵した日と一致するとか。

 そのため、どうやら「天武天皇の時代を思い出せ」と役人達に危機意識を持たせるものだった・・・という説があります。また、色々と遷都したのも、中国・唐の時代の三都制を日本に導入しようとしたためとの解釈もあります。実際、発掘調査では「僅か3日」の滞在先となった滋賀県大津市の「禾津頓宮(あまつのとんぐう)」という仮宮には極めて格式の高い建物が建っていたとか。

 突如「移動するぞ」と思いついて、このようなものを建てられるわけではなく、はじめから計画性があったんだ、ということだそうです。

 それから、この旅行の途中で聖武天皇が思いついたのが仏教をさらにもり立て、それによって国内を守り、安定させようというものでした。この考え方を、鎮護国家といいます。

 そのため、様々な仏教信仰策を打ち出しますが、その最終仕上げとして741(天平13)年に国分寺建立の詔を出します。

 これは、国ごとに国分寺(国分僧寺)国分尼寺を作らせることにしたもの。これによって、各国に国分寺が建造されますが、武蔵国の国分寺に到っては、そのまんま「国分寺」という名前が市の名前になってしまいました。

 なお、詔の中では「人家に近くて悪臭が及ぶのは良くないし、遠くては集まる人々が疲れるので良くない」と、建設の位置まで支持する徹底ぶりですが、なかなか建造が進まない国もあったようで、聖武天皇から、国を治める地方の国司へ、督促もされています。

 それから聖武天皇。
 大仏を造る、ということも思いつきました。それも、巨大な大仏。これを造れば、きっと世の中は平和になるに違いない、こう考えたのです。しかし、度重なる旅行と都の造営に人々は疲れ切っていました。この上に大仏とは・・・。

 そこで聖武天皇。ひらめきます。
 「危険な宗教家としていてマークしていた、僧の行基。あのカリスマを利用すればいいじゃないか。」
 さて、この行基とは何者か。実は、それまで朝廷からは危険人物としてマークされていた人物です。なにしろ、当時の仏教は国家の統制にあったにもかかわらず、積極的に民衆へ布教し、民衆のために用水施設を造ったり、交通施設を造ったりと社会福祉に貢献していたので、人々から人気があったんです。一歩間違えれば朝廷にとって脅威となります。 

 しかし、この人気を利用し、大仏建立のために中心となって働いてもらい、庶民を動員してもらうことにしました。こうして、大仏建立の詔が出され、まずは聖武天皇が都を移していた紫香楽宮で大仏を造り始め、しかししばらくして平城京に戻ったため、ここで再び大仏を造りはじめ、完成したのが東大寺です。行基は完成直前に亡くなっていましたが・・・。

 なお、この一連の仏教に関する施策は、聖武天皇が権力を誇示する、しかも庶民の協力も得て、というパフォーマンス的な要素もあったのではないかと、私は思います。特にあれだけ巨大な大仏を造らせた、というのはそれだけの野心があったと推測できます。

 ちなみに仏教といえば、唐から鑑真(668〜763年)が来日したことも大きな話題です。
 それまで日本の仏教界には、戒律・・・つまりお坊さんとしての決まり事というのが未整備だったため、「取り敢えず坊主になれば食いっぱぐれないや」という、怪しいお坊さんも沢山いました。そこで、唐で活躍するえらいお坊さんに来てもらって、戒律を伝えてもらおう、と要請されてきたのが鑑真でした。これがなかなか大変な来日で、唐の政府からは「勝手に国外へ出るな」と取り締まりを何度設け、何回もトライして、殆ど失明しながらも、ようやく遣唐使船に乗り込んで日本にやってきたのです。

 また、仏教的な社会事業としては光明皇后が直々に貧窮民の救済にあたりました。すなわち悲田院施薬院を設置して、お腹を空かせた人には食べ物を、薬が必要な人には薬を与えたのです。さらに和気広虫という女性は、積極的に孤児の養育に努めました。


東大寺盧舎那仏像 (奈良県奈良市)
 聖武天皇が、鎮護国家を目的として造らせた銅製の大仏。なお、戦乱のため頭部と胴部は江戸時代に造り直されたもの。奈良時代から残っているのは、膝の部分と、台座の蓮弁(れんべん)の部分だけ。

東大寺(創建当時模型)

越前国分寺 (福井県越前市)
 国分寺建立の詔によって各地に造られた国分寺の1つ。越前国分寺は、創建当時は北陸地方の中心として壮大な規模でしたが、度重なる戦乱で規模は大幅に縮小し、現在はひっそりとただずんでいます。  

○農業生産力を高めよ

 ところで、この時代から少しずつ庶民の生活にも変化が出てきます。
 それまで貴族は中国風の邸宅に住んでいる一方で、農民の多くは縄文時代とあまり変わらない竪穴式住居に住んでいました。これが、平地に掘立柱を立てた住居へ少しずつ変わっていきます。また、農民は国家から与えられた口分田を耕作し、収穫物を調、庸として都に運んだり(運脚)、さらに雑徭といった労役が義務づけられます。

 しかし、農作業だけでも大変なのに、他の作業も非常に手間と暇がかかり、そうすると本業の農作業にも時間が・・・と、非常に厳しい状況でした。あげくに天候が悪いと不作になりますし、疫病も時折流行り多くの人が命を落としていました。こんな状況ですから、口分田を捨ててどこかへと逃げ出す人が続出したのです。

 これはマズイ、と考えた朝廷は722(養老6)年に百万町歩の開墾計画を策定し、翌年には三世一身法(さんぜいっしんのほう)を施行し、「新しい土地を開墾したら、あんたから3代まではあんたのものだよ」として、農民のやる気を引き出そうとします。しかし、どうせ3代後には国に開墾した土地を献上しなければいけないので、評判はイマイチ。

 そこで743(天平15)年、橘諸兄らは墾田永年私財法を発布し、一定の面積に限って永久に私有してもオッケーという、公地公民の原則を修正する法律を出しました。例え原則を曲げてでも、朝廷への収入を増やそうと企んだわけで、開墾する方にとっても歓迎されました。特に、貴族や豪族、さらに東大寺などの寺院は多くの部下を使って、どんどん開墾させ土地を増やします。これを初期荘園といいます。

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