第11回 桓武天皇と平安京の造営


○皇位は天智天皇系へ



 称徳天皇亡き後、誰を次の天皇にするかが問題となりました。称徳天皇は女性で、独身でしたから子供はいません。そこで、右大臣として復権していた吉備真備は、天武天皇の血筋に当たる文室浄三という人物を推します。

 しかし、参議の藤原百川、同じく参議の藤原良継、そして左大臣の藤原永手ら藤原一族は、天智天皇の孫である白壁王を強引に皇位に就けました。なんと、称徳天皇の遺言を偽造したそうで・・・。

 こうして770(宝亀1)年、62歳という高齢で白壁王は即位し(光仁天皇)、吉備真備は再び中央政界から去りました。そしてこれによって皇位は天智天皇系へ移り、以後は今に至るまで天智天皇の血筋が続いています。

 ちなみに、道鏡を巡る騒動で左遷されていた和気清麻呂は復権を果たしています。

○阿倍仲麻呂の死

 ところで、もう早速余談に入りますが、光仁天皇が即位した年に、阿倍仲麻呂という人物が唐で亡くなっています。
 彼は717年、17歳という若さで遣唐留学生として唐に派遣(この時に吉備真備も同行)。非常に優秀な人物で、唐の官僚登用試験である科挙に合格。朝衡という中国名で唐の政府で活躍し、玄宗皇帝のお気に入りとなります。文学の分野でも才能を発揮し、李白王維といった当代随一の詩人と交流しますが・・・。

 御陰様で、日本に帰りたくても帰られなくなった。
「陛下、そろそろ日本に帰国させてください」
「だめ、君のような優秀な人材を手放してなるものか」

 結局、帰国を許されたのは752(天平勝宝4)年。
 第9回で登場した、鑑真に日本行きを要請し、彼とは別の船で帰国することになったのですが、なんと船が難破してしまい、遥か安南(ヴェトナム)にまで漂着してしまった。おまけに、一緒に漂着したメンバーのうち170人ほどが現地人に殺害されるという恐怖体験をし、結局、また遠路はるばる唐の都、長安に帰還。

 詳しくは中国史を参照ですが、あの安録山の乱などの混乱も体験した末、鎮南都護、安南節度使といった大役を歴任し、とうとう日本に帰ること亡くなくなったのでした。しかし、阿倍仲麻呂は外国政府の中央で大きな権力を持った日本人として特筆すべき存在であると思います。

○桓武天皇の即位

 白壁王のあと、皇位を継いだのが桓武天皇です。
 彼はまず、天智天皇系の都であった平城京、大和の地を捨てて山背国へ遷都することにします。そしてまず、長岡の地に目をつけ、ここに長岡京の造営を開始。ところが、この工事のさなか、工事監督責任者だった藤原種継が暗殺されるという事件が起こりました。犯人は大伴継人ら、反藤原氏勢力で死刑に処せられました。

 さらに、天皇の異母弟の皇太子早良親王(さわら)も陰謀に関わったとして捕らえられ、淡路へ流罪となるのですが、彼は無罪を主張し、抗議のため絶食して死にました。そして、それからというもの・・・、東北の蝦夷征討に予算をつぎ込んだこともあって造営事業はなかなか進まず、桓武の子の安殿(あて)皇太子が病気になり、さらに桓武天皇の母と后が亡くなるなど、桓武天皇にとって不吉な現象が次々と起こります。挙句に立地条件が悪かったこともあり、洪水もよく起こり悩まされる。

 これは、早良親王の祟りじゃ〜!! わしは都を放棄するぞ!
 として東に遷都。こうして出来上がったのが、平安京。そうです、鳴くよウグイス(794年)、平安京です。以後、明治維新に至るまで、戦時を除けば天皇は基本的に平安京に居続けることになります。


平安神宮 大極殿(だいごくでん)  
桓武天皇時代の平安京中枢を8分の5の規模で再現した平安神宮。創建当初の平安京の雰囲気を感じることが出来ます。この大極殿は明治27年築。ちなみに大極殿は、平安宮の中心となる朝堂院の正殿でした。

○蝦夷を征討せよ!

 桓武天皇の政策のうち、かなり大きな比重を占めたのは、東北で朝廷に従わない、蝦夷を討伐することでした。特に、光仁天皇時代の末期に伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)が蝦夷と結託して反乱を起こして以来、桓武天皇は「徹底して討伐する必要がある」と考えて力を入れます。

 そして、切り札として797年に投入したのが坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)。
 桓武天皇は彼を征夷大将軍に任命します。そして坂上田村麻呂は、力押しだけでは決着がつかないと考え、蝦夷のリーダー的存在の1人で、ゲリラ戦法で朝廷軍を悩ませてきたアテルイを和平交渉のテーブルにつかせることに成功します。

 そして、共に平安京に赴くのですが・・・朝廷ではすっかり戦勝気分。
 しかも、これまでアテルイに散々痛めつけられてきた朝廷では「アテルイ、処刑すべし!」との意見が大勢を占め、坂上田村麻呂が「話が違う。彼は和平に来たんだ」と抵抗するも無視され、アテルイは処刑されてしまいました。

 以上、平安京の造営、蝦夷征討の2本が桓武天皇の政策の代表で、このほか、東北や九州など戦争が激しい、もしくは予想される地域以外は軍団制にかわって健児(こんでい)の制(郡司の子弟に国府などの守備をさせる)を採用したり、地方行政の監視を強化するための勘解由使(かげゆし)の新設したのも特筆できます。

 この勘解由使は、国司郡司が交代する際、前任者が今までの仕事できちんと、租税の納入や官有物を管理してきたかどうか、引き継ぎの後任者がチェックし、OKを出す際の書類である解由状が適正かどうかを審査する役人で、不正を取り締まろうというものです。

 さて、意欲的に進められた桓武天皇の造営事業と蝦夷追討でしたが、とにかく財政に負担をかけたようです。
 そのため、805(延暦24)年、藤原緒嗣(おつぐ 百川の子)の建議、つまり進言によって造都・征夷の事業は中止となり、翌年、桓武天皇は70歳で没しました。

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