第12回 嵯峨天皇と最澄、空海

○今回の年表

800年 フランク王国のカール大帝がローマ教皇から戴冠。
804年 空海、最澄、橘逸勢らが唐へわたる。
806年 平城天皇が即位。
809年 嵯峨天皇が即位。
809年 アッバース朝の最盛期を築いたカリフ、ハールン・アッラシードが病没。
810年 嵯峨天皇、蔵人所を設置。また、薬子の変が起こる。
812年 最澄が空海の弟子になる。しかし、4年後に対立し絶交。
822年 最澄が没する。
835年 空海が没する。
842年 嵯峨上皇が没する。

○薬子の変、起こる

 桓武天皇のあとを継いだのが、平城天皇(へいぜい 位806〜809年)
 公務員(笑)の削減や行政改革などの推進により、さらなる歳出削減を目指しますが、どうも病気がちで「これは激務に耐えられないな」と考え、さっさと弟に天皇位を譲りました。

 こうして即位したのが嵯峨天皇(さが 位809〜823年)です。嵯峨天皇も人員や組織の見直しで朝廷の歳出削減に取り組み、さらに機密事項を扱うとして蔵人所(くろうどのところ)を設置しました。さらに、平安京の警察機構の充実を狙って検非違使を設置。こうした、今までの令(りょう)に定められていない新しい役職を、令外官(りょうげのかん)といいます。

 また、複雑化する法実務を簡便化するため、律令の改正を規定する(きゃく)、さらに、それを実際に施行するための規則を定めたを分類、編集した弘仁格式を整備。さらに、今も良くあることですが、法律をどう解釈するかは読む人によって、意外にバラバラ。そこで、令義解(りょうぎのげ)が編纂されました。


 ところで、嵯峨天皇に位を譲った平城上皇は、平城京で静養する内に体調が回復してきたらしい。そうすると「また天皇になりたいなあ」、なんて思ってしまうものです。それを察知し、権力の中枢に返り咲きをと企んだのが側近の藤原仲成藤原薬子の兄妹。

 彼らは、桓武天皇の側近にして暗殺された、藤原種継の子。そして、薬子は長女が平城上皇の妃でありながら、なんと、その平成上皇と男女の仲だったという関係でございました。

 まだ桓武天皇が在位だった頃、これを訊いた桓武天皇が薬子を後宮から追放したこともあったとか。
 ・・・が、平城天皇即位により、また元の関係に戻ったとさ。

 さて、「貴方なら出来るわ☆」と、薬子にささやかれた平城上皇。平城京で天皇の如く、色々と命令を出し始めます。嵯峨天皇としてはたまったものではない。役人達にも動揺が広がり、どこから機密が平城上皇側に漏れるか解らない。

 そこで設置されたのが、先ほど紹介した機密を扱う蔵人所なのです。天皇が信頼した人間を集め、そのトップである蔵人頭(くろうどのとう)に藤原北家出身の藤原冬嗣が任命されました。さあ、いつでもかかってこい、兄上よ!!

 おうよ、のぞむところだ!ということでしょうか。810(弘仁元)年、ついに平城上皇は
 「都を平城京に戻す」
 と宣言。これに対し、嵯峨上皇は直ぐに反撃を開始。たまたま平安京にいた藤原仲成を逮捕し斬首すると、坂上田村麻呂率いる軍勢をを平城京に向けて進軍。また、その他の拠点にも直ぐ朝廷軍を派遣し、平城上皇を包囲。一度は平城京を脱出した平城上皇と薬子でしたが、逃亡を断念し、お縄頂戴。平城上皇は出家し、薬子は自害。僅か数日でクーデターは終了するという、あっけない結果に終わりました。これを薬子の変といいます。

 これによって、藤原式家は没落し、冬嗣の北家が繁栄していきます。
 ちなみに、この事件は日本書紀、続日本書紀に続いて朝廷が編纂させた『日本後紀』に書かれていますが、これには藤原冬嗣が編纂に関わっています。・・・とすると、藤原薬子のことも悪く書いたんだろうなあ・・・なんて推測されたり。さて、史実はどうなんでしょね。

○女性の名前に「〜子」が普及したのは?

 ここでちょっと余談。
 今やかなり減ってしまいましたが、一昔前までは綾子だとか、純子だとか、女性の名前には当たり前のように「〜子」と付けることが多かったようです(もっとも庶民の場合、昭和初期は”ハツエ”とか”キン”とか、江戸時代に到っては”熊”とか”鍋”とかだったようですが)。しかし、小野妹子に代表されるように、元々は男性に使われる「〜子」。

 実は、嵯峨天皇が皇女達に「〜子」と付けさせたことから、他の貴族も真似して普及したそうなんです。
 てなわけで、小野妹子はオカマじゃありませんから!(←意味不明)

○仏教に新しい風を! 最澄、空海の挑戦


 ところでこの時代。日本仏教界に2大スターが誕生しました。彼らの名前は最澄(さいちょう 767〜822年)、それから空海(くうかい 774〜835年)。まずは、最澄から語っちゃいましょう。

 最澄は近江国(現在の滋賀県)の出身。東大寺で受戒した後、比叡山で修行生活に入ります。その中で、「仏教の中でも天台教学が魅力的だな」と考えるようになり、804年7月に遣唐使船に乗り込みとして唐へ留学しました。

 そして、天台教と真言密教を学んで帰国した彼は、天台宗を開き、奈良を中心に栄えた法相(ほっそう)宗など、南都六宗と総称される、既存の仏教勢力から独立した、新しい仏教を開始しました。活動拠点となったのが、比叡山に開いた延暦寺です。

 一方、空海は讃岐国(現在の香川県)の出身。修行をしている内に、大和の久米寺で「大日経」をみてから、「密教を学びたい!」と考えるようになり、最澄と同時期に唐へわたりました。そして、青竜寺(しょうりゅうじ)の恵果(けいか)という、密教界でもの凄く偉いお坊さんから
「お前さんは超優秀じゃ。よし、ワシの全てを授けよう」
として、密教と、それに必要な多くの経典や仏具、曼荼羅(まんだら)を授けられ、また様々な中国文化も吸収し、2年で帰国。そして、真言宗を開き、京都の高雄山寺(→神護寺)で活動を開始しました。

 これを聞いた最澄は、自身も密教を学んだこともあって
「私も教えを乞いに行こう」
 と、空海と親しく交わるようになり、812年には最澄は空海から灌頂(かんじょう)を授けられました。これは、頭の上に水をそそぎかける、仏教での重要な儀式で、密教でも「秘法を伝える」という重要なものでした。そんなわけで、二人の仲は強固に見えたのですが・・・。

 4年後、教義を巡って二人は対立することに。
 しかも、最澄の愛弟子が空海の下へ去ったこともあり、とうとう絶交してしまいました。

 その後、最澄は法相宗の学僧徳一らと激しく論戦を繰り広げたり、筑紫国(現在の福岡県)や関東地方を巡幸するなど、精力的に活動。「仏法によって国家をまもること(=鎮護国家)」を目標とし、天台宗の地位を上げていき、822年に亡くなりました。ちなみに、その弟子である円仁(794〜864年)円珍(814〜891年)は密教の教えを本格的に取り入れます。

 そんな2人も、激しく対立するようになり、のちに円仁グループは延暦寺で山門流を形成。円珍グループは園城寺(三井寺)で寺門派を形成。次第に、両者は激しくぶつかり合うようになり、鎮護国家どころか、朝廷を巻き込んだ、実に厄介な争いを繰り広げてくれましたとさ。やれやれ。

○空海のお話パート2

 では、ここで空海に話を戻しましょう。
 空海は816(弘仁7)年から、修禅の道場として高野山に金剛峰寺を開く事業を開始。さらに、嵯峨天皇から京都の東寺を与えられ、教王護国寺として鎮護国家の根本道場としました。加えて、高雄山寺を神護国祚(こくそ)真言寺と改称します。この3つが、空海の拠点といえるでしょう。


東寺(教王護国寺)  真言宗東寺派の総本山。嵯峨天皇が平安京の両脇に東寺と西寺を造営させました。空海没後、一時衰えた以外は時の有力者達に保護されており、現在も多くの古い建築(特に徳川家光寄進の五重塔が有名)や、平安時代からの宝物が多くあります。

 また、空海は東寺の隣に綜芸種智院を建設し、仏教だけではなく儒教と道教も教える、日本初!一般庶民向けの教育機関を設立します。

 さらに、土木事業にも精通していた彼は、故郷讃岐国の満濃池や、大和国の益田池の造営にも尽力。さらに、嵯峨天皇、それから唐で一緒に学んだ友人の橘逸勢(?〜842年)とならんで「三筆」と呼ばれる書道の達人としても名を馳せました。色々なことをやったもんですなあ。

 ちなみに、いまでも多くの人が巡る四国八十八カ所、すなわち「お遍路」。
 これは、空海が修行したといわれる足跡をたどるもので、平安末期から行われていたそうです。巡礼の順番も、鎌倉時代ぐらいからほぼ固まってきたようで、江戸時代から特に盛んになったそうですね。私の先輩も、仕事を辞めてお遍路の旅に出たそうですが、さて、いまはどうしていることやら。

 ところで教育といえば・・・。
 この時代は藤原氏や橘氏など、有力氏族も自分の一族向けの大学別曹というのを造り、国家公認の教育機関として運営しました。まあ、早い話が官僚養成機関だったわけですが・・・。ちなみに、藤原氏の勧学院が13世紀まで存続したのを除けば、殆どは平安末期に衰退しました。色々な図書の収蔵や、宿泊設備なども整えたわけですが、維持費もかかったことでしょう。おまけに、藤原氏繁栄に伴い、他の一族が没落したこと、最後には貴族そのものが没落したこと・・・が衰退の原因でしょうね。

○その他

 さて、こうして次第に仏教が本格的に庶民の間にも浸透してきました。
 そうすると、日本古来の神々と次第に結びついてくるんですね。これを、神仏習合といい、神社の中に寺が出来たり、その逆の例も顕れてきます。それから、天台宗や真言宗は山中での厳しい修行をメインとするため、日本古来からの山岳崇拝と結びついて、いわゆる山伏に代表されるような、修験道の源となってきます。

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