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第14回 激動する東アジアと日本
さて、菅原道真が失脚してから6年後の907年。 彼が予想したとおり、中国全土を支配していた唐という国家は、875年に発生した黄巣の乱で決定的な打撃を受け、そして朱全忠という人物によって滅ぼされました。そして、朱全忠は後梁という国家を建国します。しかし、かつての唐のように強大な力があったわけではなく、後唐(923〜936年)、後晋(936〜946年)、後漢(947〜950年)、後周(951〜960年)と次々と国家政権が交代。さらに地方では10あまりの小国が分立します、これを、五代十国時代といいます。 これまでの唐という巨大国家が、東アジアの各国家に朝貢、つまり貢ぎ物を持ってこさせ、形式的に各国家を支配する一方で、唐の威光による保護を与えるという関係が崩壊しました。その影響もあり、これに前後する形で朝鮮半島では、日本とも関係が深かった新羅が弱体化します。 900年に、都を全州において後百済が、901年に都を開城において後高句麗が独立し、再び朝鮮半島は三国が争う形へと発展します。これを、後三国の動乱(後三国時代)といいます。ただ、この状態は長く続いたわけではなくて、918年に後高句麗の国王、弓裔が信頼を失って追放されたことに伴い、侍中(宰相)の王健が高麗を建国。この高麗が新羅、後高句麗を服属させ、936年に朝鮮半島を再統一しています。 ・・・ちなみに余談ですが・・・。 新羅の最後の王となったのが金溥(敬順王)。強大な後百済に悩まされた結果、高麗に屈服するという方策を採ることで、高麗から厚遇してもらうことに成功しました。おまけにその、後百済の国王、甄萱(しんけん)は、息子達が争い始めたものですから、なんと高麗に亡命。かなり一風変わった、朝鮮半島統一劇でした。 それからもう一つ、926年に渤海国が滅亡しました。 この国家は中国東北部から朝鮮北部にかけて存在していたもので、高句麗滅亡後に、その遺民達と靺鞨(まっかつ)人によって建国されたもの。日本とは新羅を牽制する意味もあって活発な交流、貿易を続け、727年以降、なんと34回も日本に使者を派遣。個人的に日本と渤海との親密な関係は研究すると非常に色々な発見があると思うのですが、ともあれ、使者は920年を最後に派遣されなくなります。 何故ならば、まず渤海国内部で政権抗争が発生します。 これに加えて、916年に耶律阿保機(やりつあぼき 872〜926年)がまとめ上げた契丹人の国家「遼」による攻撃を受けるようになったからです。結局、この攻撃を防ぎきれず、渤海国は926年に滅亡してしまいました(ちなみに、耶律阿保機自身も遠征中に亡くなってしまいました)。 さて、この時代の日本の対外関係は唐との関係ばかり注目されていますが、実際にはむしろ、新羅や渤海と深い交流を続けていたのです。もっとも、特に新羅とはライバル関係だったようで、753(天平勝宝5)年、遣唐使として唐に派遣されていた大伴古麻呂が、唐に朝貢する各国が一同に並んだ会議の中、座席の位置を新羅の上位にするよう抗議する事件が起こっています(笑)。 次のページ(第15回 律令政治の動揺と、平将門・藤原純友の乱)へ 前のページ(第13回 進む藤原氏の他氏排斥)へ |