第13回 進む藤原氏の他氏排斥

○今回の年表

842年 嵯峨上皇が没する。橘逸勢、伴健岑らが逮捕。
857年 藤原良房が太政大臣に任命される。
866年 応天門の変が起こる。
870年 メルセン条約でフランク王国が再分割。現在のフランス、ドイツ、イタリア地域にほぼ別れる。
875年 唐で黄巣の乱が起きる(〜894年)。
882年 (ロシア) キエフ公国が建国される。
887年 宇多天皇が即位。
894年 菅原道真の進言で、遣唐使が廃止。ただし、私的な貿易船は行き交う。
897年 醍醐天皇が即位。菅原道真と藤原時平の二頭体制へ。
900年 ハーラル1世がノルウェーを建国。
901年 菅原道真が大宰権帥に左遷される。
907年 唐が滅亡する。

○橘逸勢、逮捕!

 政権が交代すると本当に怖いですね。
 仁明天皇(にんみょう)に皇位を譲っていた嵯峨上皇が842(承和9)年に亡くなると、その2日後に橘逸勢、伴健岑(ともの これみね)が謀反の容疑で逮捕されてしまいました。その容疑とは、
「仁明天皇の皇太子である恒貞親王を擁して、東国で挙兵しよう謀反を企んでいる」
(通報者は、平城上皇の第1皇子、阿保親王
 というもの。藤原良房(藤原冬嗣の次男)は知らせを受けると、ただちに平安京を厳戒態勢におきました。

 捕らえられた二人は、拷問にも耐えて無罪を主張しましたが、橘逸勢は伊豆へ流刑(途中、遠江で病没)、伴健岑は隠岐に流刑となりました。そして、恒貞親王は皇太子の座を追われ、皇太子派だった藤原愛発(あいち)らも失脚。代わって藤原良房の甥でもあった道康親王が皇太子となりました。いやあ、実に藤原良房にとって理想的な展開ですね!

 さらに道康親王が即位すると(文徳天皇)、天皇と自分の娘(明子 あきらけいこ)との間に生ませた惟仁親王(これひと)を皇太子とし、直ぐに次の天皇交代にも備えます。さらに、857(天安1)年には、平安時代では初めて太政大臣に就任。もちろん、これは最高の官職にして臨時の役職であり、よほどのことがないと就任できませんでした。しかも、皇族以外で・・・。

○清和天皇の即位と応天門の変

 そして858(天安2)年、文徳天皇が亡くなると、惟仁親王が9歳で即位します(清和天皇)。
 それからしばらく時は流れ、866(貞観8)年のことでございます。

 応天門と呼ばれる朝堂院(国家儀式を行う場所)の正門が炎上しました。いったい、何が原因か!と、2ヶ月にわたって調査した結果、藤原良房の弟である藤原良相、それから大納言で名族・大伴一族の伴善男は、左大臣の源信(嵯峨源氏)が犯人であるとし、逮捕しようとしました。

 さすがにそれはどうか、と考えたか、別の秘策を思いついたのか、藤原良房は清和天皇に至急会いに行き、犯人逮捕は慎重に・・・と進言。源信は逮捕を免れ、ほどなく疑いは晴れ、この恩義に源信は感謝感激。これまで嵯峨源氏として、藤原氏とライバル関係にありましたが、もはや対抗しようと考えなくなりました。このあたり、藤原良房の狙いどおりといったところでしょうか。


平安神宮 応天門  桓武天皇時代の平安京中枢を8分の5の規模で再現した平安神宮。ウワサの応天門も再現されています。現建物は、明治27年築です。

 しかし、犯人は一体誰なんだろう。と、誰もが不思議に思っていた矢先。
 なんと第一通報者の伴善男ら、大伴(伴)一族や紀氏一族が犯人である、という情報が入り、彼らが逮捕されました。もちろん否認をしますが、それぞれ流罪に処せられ、事件は解決・・・となりました。これを、応天門の変といいます。

 応天門の変によって藤原良房は、嵯峨源氏、大伴(伴)氏、紀氏といった名族を没落させることに成功し、彼は天皇にかわり、政治を摂(と)りおこなう摂政(せっしょう)という役職に就任。強大な権力を手に入れたのです。さて、真犯人は一体誰だったのでしょうか。やはり伴善男? それとも、実は源信? いやいや、権力を手に入れた藤原良房? もしくは・・・庶民Aさん?

 いずれにせよ、藤原良房は見事にこの事件を利用し、出世街道を登ったわけです。

 なお、摂政というのは聖徳太子や中大兄皇子が任命されていたように、皇族でなければ就任できない重要な役職でした。藤原良房は、その役職を皇族以外で初めて得たのですから、その権力の大きさたるや・・・といった感じです。なお、この摂政という役職は、のちに「幼少の」天皇の権力を代行する役職、となり、成人した天皇の権力を代行する役職は関白(かんぱく)と呼ばれるようになります。

○阿衡の紛議

 こうして権力を手に入れた藤原良房も亡くなり、後を継いだのは彼の養子であった藤原基経836〜891年 実父は藤原長良)。彼は、清和天皇の後を継いだ陽成天皇が奇行が多いとして退位させ、884(天慶8)年に光孝天皇(位836〜891年)を即位させます。そして、光孝天皇は政治を基経に一任しました。

 ところが、光孝天皇は3年で亡くなり、次に即位したのは息子ながらも、源定省として臣籍に降っていた宇多天皇(位887〜897年)でした。彼は、藤原基経と直接的な外戚関係ではありませんでした。それでも宇多天皇は、関白という役職を新たに設置して「政治のことは基経に任せる」としました。・・・が、このことを基経に伝える文章の中に「阿衡(関白の中国名)の任を以(もっ)て卿(けい)が任となすべし」とあったことが、基経を激怒させました。

 この文章、宇多天皇のお気に入りだった文章(もんじょう)博士、橘広相(ひろみ)が起草したものだったのですが、基経としては橘広相と宇多天皇の親密ぶりが気がかりだったのです。なにしろ、橘広相は娘である橘義子と、宇多天皇の間に2人の皇子を産ませており、このままだと次の天皇はまたまた藤原氏と外戚関係なし、という状況。

 そこで
 「阿衡(関白)とはなんだ、阿衡とは! 摂政ではないということは、実質的には俺を左遷するつもりなんだろう!」
  と抗議し、半年も仕事に出てきませんでした。当然、彼1人ならともかく、彼の息がかかった者も同調しますから、宇多天皇としては仕事が出来ない。しかし、宇多天皇だって
 「私は立派な成人なんだから、摂政ほど完全に権限を白紙委任するつもりはない」
 と対抗。この混乱を、阿衡の紛議といいます。

 しかし結局、宇多天皇が折れて「あの文章を起草した橘広相が悪かった。阿衡、つまり関白は摂政と同じ権力を持つ」と詔勅を発表。かくして、基経は橘広相を追い落とし、宇多天皇政権でも権力を確立します。しかし、宇多天皇が面白いはずがありません。こうして、打倒藤原氏のために引き立てていったのが、この事件を解決するために尽力した学者(文章博士)、菅原道真(すがわらのみちざね 845〜903年)でした。

 彼は文学者、詩人として超一流の人材で、歴史分野では892年に「類聚国史」を編述(日本書紀をはじめとする5つの歴史書をまとめて、例えば神祇(じんぎ)、政理、刑法、職官など18の分野に類別、編集した大作)。さらに、901年に成立した「日本三代実録」(光孝天皇までを記述)の編纂事業にも大きくかかわり、ここに六国史と分類される日本書紀以来の6つの歴史書が完結しました。

 復習になりますが、六国史とは「日本書紀」「続日本紀」「日本後紀」「続日本後紀」「日本文徳天皇実録」「日本三代実録」の6つの歴史書のことですぞ。「類聚国史」は、「日本書紀」から「日本文徳天皇実録」をまとめたものです。

 それから漢詩の達人であった道真は、900年に菅家文草(12巻)、903年に「菅家後集」1巻をまとめています。
 また和歌も一流で、のちに成立した「古今和歌集」などの勅撰集(天皇の命令で編纂されたもの)に34首が収録。

○藤原時平の陰謀?

 891(寛平3)年、ついに藤原基経が亡くなります。
 彼の長男である藤原時平は21歳、次男の仲平は17歳、それから忠平は12歳と、いずれも若く、しかも官位が低かった。さらに左大臣の源融は70歳、大納言の藤原良世は69歳と高齢。宇多天皇に強硬に意見できる者はいませんでした。そこで、宇多天皇は直々に政務を執ることにし、菅原道真を蔵人頭に任命して出世コースにのせ、このあとどんどん出世させていきます。

 政務面でも宇多天皇に色々と意見し、894年には「遣唐使は不要である。唐は混乱状態にあり、今更我が国が学ぶものはありません」として、遣唐使を廃止させました。・・・ただまあ、この遣唐使の中心メンバーとして予定されていたのが、他ならぬ菅原道真と、その友人の紀長谷雄(きの はせお)だったので、個人的には、唐へ行きたくなかったのかな? なんて疑いも。しかし、実際にほどなく唐が滅亡しているので、菅原道真は外国の情勢をよくつかんでいたことが解ります。

 そして宇多天皇は897(寛平9)年に、息子に譲位しました。こうして即位したのが13歳の醍醐天皇でした。
 ところが譲位について、藤原時平を無視して、菅原道真とだけ相談して決めたことが、とうとう藤原時平の堪忍袋を切らせてしまったようです。おまけに、宇多天皇は譲位にあたって「醍醐天皇が成長するまで、政治は菅原道真と藤原時平を中心に行うように」なんて宣言しています。これには、他の貴族も怒りました。「なんで道真ばかり重視するんだ!」というわけです。

 それでも菅原道真は899(昌泰2)年に右大臣へと出世(時平は左大臣に)。
 色々恨みを買いながらも、引き続いて出世コースに乗っていたかに見えましたが・・・。

 901(延喜元)年、菅原道真は醍醐天皇を廃位させようとしたとして、九州の大宰府の長官である大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷されました。これを聞いた宇多上皇(当時は出家して法皇に)は裸足で駆けだし、醍醐天皇に直訴しようとしましたが「関係者以外立ち入り禁止」とされて、面会はかないませんでした。

 こうして菅原道真は、大宰府で2年後に病死。
 藤原時平は最大のライバルを蹴落とし、醍醐天皇の厚い信任を受けて政治権力を行使することになります。なお、この菅原道真左遷は、誰が企んだものなのか、実際にはよく解っていません。状況から考えると、おそらく藤原氏の陰謀であるとは思われますが・・・。

 三善清行という学者貴族からは「右大臣を辞任せよ」と勧告されているなど、色々なところから恨みや妬みが菅原道真には向けられていました。ああ、急激な出世ってコワイですね。私も気を付けなければ(・・・そんな機会は無さそうだけど)。

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