| 第18回 平忠常の乱と前九年の役
そんな中、地方の武士団を統率し、その棟梁として勢力を拡大していった二大勢力が、源氏と平氏です。・・・といっても、源氏は既に見ました通り出自が色々です。嵯峨天皇の子孫だったり、宇多天皇の子孫だったり、光源氏だったり。あ、最後のは源氏物語に登場する架空の設定ですが。 これから御紹介するのは、清和天皇の子孫である、通称「清和源氏」。 既に藤原純友の乱の時に登場した源経基、その息子で安和の変で登場した源満仲は既出ですが、彼らは摂津(現在の大阪)を拠点とし、中央との太いパイプを作ります。さらに、満仲の息子である源頼光(よりみつ 946〜1021年)、源頼信(よりのぶ 968〜1048年)兄弟も、摂関家と深い繋がりをもっていました。 なお、頼光は大江山の鬼である酒呑童子(しゅてんどうじ)の首を刎ね、退治したという武芸の達人としても名声が高かった人物です(当時、鬼退治というのが武名を上げていました。まあ、鬼と言っても実態は盗賊だったのではないか・・・と思いますが)。また、源頼光は摂津を拠点としたので摂津源氏、頼信は河内を拠点としたので河内源氏と区分されます。 そして1028(長元元)年、関東(板東)で平忠常の乱(たいらのただつね)が発生。 (藤原道長が亡くなった翌年で、藤原頼通が関白であった時代です) 当初、朝廷は平忠常(967〜1031年)のライバルであった、あの平貞盛の流れを汲む平氏に反乱を抑え込ませようとし、平直方を派遣します。しかし、これは見事に失敗。そこで起用されたのが、源頼信であります。彼を甲斐守へ任命し追討使として派遣。見事、1031(長元4)年に平忠常を降伏させ、反乱を鎮圧したのでありました。 ちなみに平忠常は都に向けて護送中、病没。 一方、源頼信は自身の勢力圏であった河内(現在の大阪府東部)のみならず関東にも勢力を作ることになり、この地域の平氏を従えていくようになります。特に、この乱で活躍した源頼信の長男、源頼義は、忠常討伐の前任者で鎌倉を支配していた平直方から見込まれ、「私の娘を妻にしないか」との申し出を受け結婚。見事、嫡男である源義家が生まれ、のちに鎌倉を引き継ぐことになります。 ・・・ちなみに、この平直方の子孫が、後に源頼朝に協力する北条時政。 源頼朝も当然、平直方の子孫であり、両人とも共通の先祖の土地である鎌倉で幕府を開いたわけであります。 いやはや、なんと不思議な縁でしょうね。 (注:平清盛は、平貞盛の末子である平維衡の系統。平直方や北条時政は、貞盛の次男である平維持の系統) 話が脱線しましたが、源頼義の次なる狙いは東北、すなわち奥州でした。古来より蝦夷(えみし)、俘囚(ふしゅう)等として、朝廷に従わない厄介な集団がいる場所ですが、ここに源氏は目を付けたわけでございます。
一方、陸奥守として赴任してきた藤原登任(なりとう)も 「ワシ直々に陸奥を支配すれば、もっと多くの馬や黄金が手に入る」 と考えるようになり、安倍頼良を挑発します。なにしろ、藤原登任は勢力が振るわない、藤原南家の出身。当時64歳だったといわれる高齢であったにもかかわらず、我が世の春を夢見るのは無理もありますまい。代理を派遣する遥任(ようにん)ではなく、自らやってきたのもそれが理由でしょう。 こうして1051年、両者は鬼切部(おにきりべ:宮城県鳴子町)で激突し、のちに前九年の役と呼ばれるバトルがスタートします。藤原登任の軍勢は大敗。そして、後任の陸奥守・鎮守府将軍として源頼義がやってきたのです。頼義、時に50歳を過ぎた年齢でしたが、軍事のエースとしての評判は非常に高い。
ところが、源頼義の陸奥守任期が最後の年になった1056(天喜4)年。陸奥権守である藤原説貞の子、光貞、元貞兄弟が阿久利川(現・磐井川)で野営中に何者かに襲われ、郎党が殺され、馬が奪われるという事件が発生します。そこで源頼義 「光貞、犯人に心当たりはあるか」 「安倍頼良の息子、安倍貞任(さだとう)に間違いありません。奴は私の妹を嫁に欲しいと昨年言ってきたのでありますが、断ったことを恨んでいるに違いないからです」 「よし、奴を捕らえて処刑にせよ!」 ・・・一方的な話で無茶苦茶な話です。 ここにいたって、とうとう安倍頼時も 「親として、息子を見捨てるわけにはいかない。これまで我慢してきたがもう限界だ!」 と、立ち向かうことにします。 頼義としては、さっさと叩き潰して・・・と狙っていたのでしょうが、まさか自分の陸奥守任期を大きく越して戦う羽目になるとは思っていなかったでしょう。長期戦となり、「今は戦時中であるので・・・」と朝廷に陸奥滞在を認めさせるのに必死となります。 さて戦いも3年に突入した時点で、安倍頼時は戦死しますが、引き続き息子の安倍貞任を中心とした安倍一族は徹底抗戦。さらに、それに先駆けて安倍頼時の娘婿となっていた藤原経清という人物(藤原秀郷の子孫)も源頼義から寝返り、加勢します。 そして、1057(天喜5)年11月。吹雪が吹き荒れる中、戦いを挑んだ源頼義軍は、今の岩手県と宮城県の県境近くにある、黄海柵において安倍貞任、藤原経清の軍勢に徹底的にやられてしまいます。 かろうじて一命を取り留めた頼義、それから息子の源義家(当時13歳)らは、その後も負け続け、しばらく戦う力を失ってしまいましたが、出羽を支配する清原氏に援軍を要請します。 「これはチャンス。もしかしたら、安倍氏に取って代わることが出来るかも・・・」 と思ったのでしょう。1062(康平5)年、清原光頼・武則兄弟が援軍に駆けつけ、安倍氏の有力な砦であった衣川柵(岩手県衣川村)を落とし、ついに最後の拠点となった厨川柵(岩手県盛岡市)を陥落。安倍貞任、藤原経清は処刑され、他の安倍一族は流罪となりました。こうして、実質的に12年もかかった戦いは終結しました。 やった! これで源氏が陸奥に勢力を作ることが出来るぞ!!! 頼義君、さぞかし笑いが止まらない状況だったでしょう。 しかし、未だ関白であった藤原頼通らの、朝廷も論功行賞は狡猾で、源氏の勢力伸長を恐れ、栄転という名目で源頼義を伊予守へ任命。もちろん、むしろ伊予守は非常にいいポストではあったのですが、ともあれ陸奥には源氏の勢力を作らせないようにします。そして、その陸奥は清原氏が鎮守府将軍に任命され、一気に支配を固めていくことになるのです。 次のページ(第19回 院政の開始と後三年の役)へ 前のページ(第17回 藤原道長の時代)へ |