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世界各地域史・日本史 第19回 院政の開始と後三年の役
そこに即位したのが、当時の摂関家を直接の外戚としない後三条天皇(位1068〜72年)でした。後三条天皇は、久しぶりに自らが積極的に政治に関与する天皇で、大江匡房(1041〜1111年)を登用し、国政改革に取り組みます。 当時の政府財政は苦しいもので、その理由が荘園の増加であると天皇は考えました。 そこで1069(延久元)年、延久の荘園整理令を発令。以前にもこうした荘園整理令は出されたこともありますが、地方任せで不徹底なもの。今回は中央に記録荘園券契所(記録所)を設置し、厳しく「荘園として適正かどうか」書類審査を行いました。実際、石清水八幡宮が持っていた34カ所の荘園のうち、13カ所の権利が停止されるなど、効果をあげました。 また、後三条天皇は「もっと自由な立場で政治に関わりたい」と考えていたようで、在位4年にして息子の白河天皇へ譲位。後三条「上皇」として政治を行うことにします。ただ、後三条天皇はほどなく病死してしまいました。
この頃、寺社が武装集団と化し、たびたび朝廷に強訴とよばれるデモを行い、要求を通そうとします。 例えば奈良の興福寺は、藤原氏の氏神である春日大社の神木を掲げて強訴。これには摂関家も迂闊に手が出せず、白河天皇も苦々しい日々が続きます。 また、延暦寺と圓城寺が対立。激しく武装衝突を起こし、特に1081年の延暦寺と圓城寺の激突は双方に死傷者が出るほど凄いものでした。そこで白河天皇は、延暦寺側に荷担し、前九年の役で活躍した源義家らを自らの護衛にしました。これは、圓城寺からの報復を恐れての措置で、武士が天皇の護衛を務めるのはこれが初となります。 そんな中、1084年に白河天皇の愛妻だった中宮賢子が病死。悲嘆にくれた白河天皇は、政治にノータッチ状態となり1年が過ぎますが、今度は皇太子であった実仁親王(後三条天皇の子で、白河天皇の弟)が亡くなります。そこで白河天皇、ピーンとひらめきます。実は、白河天皇の後は実仁親王が継ぎ、実仁親王が亡くなった場合は、さらにその弟の輔仁天皇が継ぐ・・・という、後三条天皇の遺言があったんですけどね。 「いい機会だ。亡き賢子を弔うという名目で、私と彼女の息子である善仁(たるひと)親王を天皇にしてしまおう。 そして私は・・・やつの親父として、慣習や制度にとらわれず、自由に権力をふるうのだ!!」 こうして1086(応徳3)年、白河天皇は幼少の息子である善仁親王へ譲位(堀河天皇)。白河上皇(院)として院庁(いんのちょう)を開き、天皇を後見するという名目で、政治の実権を握る院政を開始しました。要は、天皇の親父による摂政・関白政治ですね。そして、院の軍事力を付けるべく、院の御所に北面の武士と呼ばれる武士団を設置します。おそらく、「後三条天皇の遺言を守れ!=輔仁天皇を天皇にしよう、という動きには軍事力で対抗するぞ」という意味合いもあったでしょう。 こうして、白河上皇、左大臣の大江匡房、大納言の藤原実季(さねすえ 上皇の叔父)など近親者で固めた政権が発足。何だかんだ理由は付けていますが、自分の子供を天皇にしたい!と、積極的に動き出しちゃったわけです。これに対し、摂政だった藤原師実に対抗する力はありませんでした。 さらに、権力を付けた上皇の周りに集まった貴族達を院近臣といい、上皇に信頼された彼らは豊かな国の国司へ任命され、さらに上皇とその周辺は権力を付ける・・・という格好になりました。また、白河上皇のあとも、鳥羽上皇、後白河上皇と院政は続き、形式上は江戸時代にも行われています。 なお、実際のところ堀川天皇時代の白河上皇は、そこまで強力な院政は行っていなかったようです。
安倍氏滅亡後、清原氏が出羽(秋田県)と陸奥の多く(岩手県、宮城県北部)を実質的に支配するようになります。そして、源頼義に協力した清原武則の孫、清原真衡(さねひら)が当主になると、さらに北方へ進出。陸奥守として赴任した源高俊と協力し、1070(延久2)年に、今の秋田県北部と青森県に攻め込み、現地で独自の生活を送っていた人々を服従させます(延久二年北奥合戦)。 これは、あまり注目されていない出来事ですが、現在の青森県地域まで、中央システムに組み込まれる転換期を迎え、秋田北部では鹿角郡、比内郡、津軽地域では平賀郡、鼻和郡、田舎郡(←凄い名前だ!)等が設置されるのです。ただ、経済的な繋がりは以前から、これら地域と、それ以南で盛んでしたので、決して他地域と断絶していたわけではありません。 さて、ちょっと難しい話になってしまいましたが、こうして清原真衡は東北全域の覇者として君臨し、後三条天皇から鎮守府将軍に任命されます。その栄光はゆるぎないものであるかに見えました。しかし、まもなく清原氏を揺るがす大事件が起こります。
まず、左をご覧ください。前九年の役で処刑された藤原経清の妻は、息子(藤原清衡 きよひら 1056〜11128年)を連れて仇敵であるはずの武貞と再婚。さらに、彼との間に清原家衡(いえひら)という子を産んでいます。このあたり、色々な政治的な思惑があったんじゃないかなあと推測できます。 武貞としては安倍頼時の娘を妻とし、その子も保護することで安倍氏残存勢力からの恨みを軽減。 経清の妻としては、まだ自分の息子に安倍氏復興の望みを託せるなどなど・・・。 そんな中、一つの事件が起こり、たまっていた対立の火種に火がつきます。すなわち、息子のいなかった真衡は、今の福島県にいる平氏(通称:海道平氏)から、養子を迎え、清原成衡としたんですけどね。この、成衡の嫁さんに、源頼義が現地に残した娘を迎えることにしたんです。 その婚礼のとき、一族の長老であった吉彦秀武がお祝いに駆けつけたのですが、真衡は碁に夢中になっており秀武を無視。いつまで経っても会ってくれないので、とうとう怒りが爆発。持参していた砂金をぶちまけ、本拠地の出羽へ引きこもってしまいました。おそらく、真衡は言うことを聞かない一族を倒そうと挑発したのでしょう。直ぐに 「奴を討伐するぞ!」 と出陣。そこへ、 「チャンス到来!」 と、真衡が留守にしていた屋敷に清衡、家衡軍が乱入するのです。ここに到って、それまで静観していた源義家が動き出し。真衡を支援することに。時に1083(永保3)年、のちに後三年の役と呼ばれる戦いのスタートです。カーン! ところが、清原真衡が病死するという事態へ(タイミング的に怪しい。誰かが毒殺したんじゃないのか??)。 そこで源義家は、清衡、家衡に清原氏の領土を2分割させました。めでたし、めでたし。
・・・が、真衡の養子となっていた清原成衡は排除されたわけで、没落します。 義家、やはり兄弟げんかが起こるのを狙っていたのでしょうか。 清衡と家衡は、父が違っています。当然、どっちが清原氏の正統か争うことになります。 だいたい、家衡にしてみれば 「兄とはいえ、あいつは親父が藤原経清で、清原の血を引いていないじゃないか」 と思いがあったでしょう。今の奥州市江刺区にあった清衡の屋敷を襲撃し、彼の妻や子をことごとく殺害するという、驚きの行動に出ます。幸いにも難を逃れた清衡は、源義家に助けを求めます。 「そなたの親父とは会ったこともある。よっしゃ、協力してやろう!」
そして、一進一退の激しい戦いが展開されますが、義家は弟の源義光(新羅三郎 1045〜1127年)の援軍を得て勢いに乗り、1087(寛治元)年、家衡らが立て籠もる金沢柵(かねさわのさく 秋田県横手市)を兵糧攻めの末、陥落。家衡らは討ち取られ、後三年の役は終結しました。 さあ、今度こそ陸奥に源氏の勢力を打ち立てるぞ! ・・・と、意気揚々と朝廷に戦勝報告をした義家でしたが、白河上皇としては 「これ以上源氏の勢力を拡大させてなるものか。お前らは、勝手に戦いを起こして戦っただけだ。恩賞はださんぞ」 と考え、義家は何も得る物がありませんでした。こいつは大誤算です。やむなく、義家は私財をなげうって部下に恩賞を与え、この点では部下達からの信頼をさらに勝ち取ることにはなりました。 そして、清原清衡。 これで清原氏の当主に・・・と思いきや、父親の姓である藤原を名乗り、藤原清衡として奥州藤原氏の繁栄を作ることに成功しました。終わってみれば、清衡の狙い通り・・・だったのかもしれませんね。そして、本拠を平泉(現・岩手県平泉町)へ移し、街の整備と、今も金色堂が残る中尊寺の造営などを行いました。
弟の源義綱と対立を起こすようになります。どうやら、部下達が河内国にある所領を巡って争ったようで、1091(寛治5)年にあわや大合戦寸前となります。これを見た白河上皇は 「ムフフ、義家の力を弱める良いチャンスじゃ」 と、義綱を支援し、彼はどんどん出世。一方、義家は「奴に全国の田畑を寄進することを禁じる!」と白河上皇に予想外の仕打ちを受けて経済的打撃を受けることになり、勢力を弱めることになりました。 さらに白河上皇、今度は伊勢平氏を代表する平正盛を重用し始めますが、1098(承徳2)年、今度は彼とバランスをとるために再び源義家も呼び戻します。武士としては初めて、院への昇殿を許し、義家もこれに満足☆ 院へ行くことができるということは、上級貴族(殿上人 でんじょうびと)への仲間入りということで、非常に名誉なことだったのです。 しかし義家の死後、どうやら白河法皇は源氏の勢力を弱めることにしたようです。 まず、義家の嫡男であった源義親は、本拠地だった河内への影響力を薄める意味合いで九州の対馬へ対馬守として赴任させられます。これに対し彼は平将門のごとく独自路線を突き進み、1107年に出雲国で役人を殺害したことで討伐されてしまいます。このとき派遣されたのが、先ほどの平正盛で、彼を出世させるために仕組まれたような雰囲気もあります。実際、源義親は生死不明であり、さらに人気があったようで、その後も彼を名乗る人々が続々と登場。朝廷を困らせました。 ついで、源義綱の一族も討伐されました。 これは、河内源氏の棟梁の座を狙った源義光による陰謀でもあったのですが、源義親の嫡男である源為義の養父となっていた源義忠(義家の4男)が何者かに殺害されます。これを、源義綱らの陰謀だ〜と捏造し、白河法皇も 「為義よ、義綱らを討伐せよ」 と命令。あれほど白河法皇に引き立てられた、源義綱一族は命運がつきました。 終わってみれば、為義もあまり有能な人物ではなかったようで、朝廷内ではあまり重用されず、河内源氏の衰退を招きます。おまけに、叔父達や弟達もそこそこの勢力がありました。しかも、息子である源義朝を関東へ送り込んだのはいいのですが、親子喧嘩を始めてしまいます。 ところが、義光の一族は様々な場所で勢力を拡大し、武田氏、小笠原氏、佐竹氏、南部氏など着実に一族は拡大していきます。よくよく考えてみれば、源義光の子孫って、その後も長らく歴史の表舞台で活躍していきますね。子孫の繁栄に成功したのは、義家でも義綱でもなく、義光だったかもしれませんね。 (ちなみに、義家の子、義国からは足利氏、新田氏、今川氏、細川氏、山名氏などが出ていますが、室町時代で衰退している例が多い・・・) 次のページ(第20回 保元の乱と平治の乱)へ 前のページ(第18回 平忠常の乱と前九年の役)へ |