第22回 鎌倉幕府の成立
1180(治承4)年、後白河法皇の次男である以仁王(もちひとおう)は、 「兄は二条天皇として、弟は高倉天皇として即位したというのに、俺だけこの扱いはなんだ! 親王にすらなれないとは」 という恨みを爆発。 「すべて平氏のせいだ! 清盛の野郎をぶっ倒せ!!」 と、各地に令旨を発し、自らは源頼政を味方に付けます。頼政は、平治の乱では源義朝を裏切り、平清盛についたことで清盛から絶大な信任を得ていましたが、なんと76歳にして大勝負に出ました。ところが、準備が整わぬうちに発覚し、あわてて挙兵する羽目になります。結局、平知盛(1152〜85年/清盛4男)率いる軍勢の前に敗北し、以仁王ともども、京都の少し南に位置する宇治で戦死しました。
同年、今度は源頼朝(みなもとのよりとも/源義朝の子 1147〜99年)が挙兵します。 頼朝は前に紹介したとおり、清盛に処刑されることなく、伊豆の蛭島(ひるがしま)という場所で過ごしていたのですが、表向きは仏教オタクのふりをしながら(・・・もっとも、仏教は大好きだったようですが)、貴族の三善康信(1140〜1121年)を通じて、絶えず平氏の動向を探っていました。そして来るべき日に備え、味方になってくれる地元の有力者を探していました。そこで、彼がまず目を付けたのが伊藤祐親(いとうすけちか)という人物でした。 さて、どうして味方に付けよう。 そう考えた頼朝は、なんと祐親が仕事で京都に出張中に、その娘を口説き落とし、なんと千鶴という息子まで誕生させてしまいました。こうすれば、「やれやれ、子供が生まれては仕方がない。頼朝殿の味方をしよう」「ありがとう、パパ!」となるだろう・・・と考えたわけです。 ところが、京都から帰ってきた祐親は激怒! 「これが清盛様にバレたら、わしの立場は・・・」 と、娘と頼朝の間を裂き、千鶴を川に投げ込んで殺してしまいました。頼朝、もちろん逃げます。 そこで、今度は次の作戦に移行します。 これも地元の有力者であった北条時政(ほうじょうときまさ/1138〜1215年)を味方に付けよう、と考えたわけです。そこで、やはり同じ手段を使って・・・と考えたところ、今度はなんと時政の娘、北条政子(ほうじょうまさこ/1157〜1225年)の方から熱烈なアタック! 頼朝のほうが押し切られてしまう形になりました。やはり京都から帰ってきた北条時政は驚きましたが、「いやしかし待てよ・・・」と考えます。「ワシの見たところ、最近の平氏はボロボロだ。もしかすると、頼朝に味方をすれば、北条家が田舎領主から一気に繁栄できるかも?」 ・・・と考え、二人の結婚を許しました。 そこに、先ほどの以仁王の令旨がやってきました。頼朝と時政は協議した結果、「よし、今こそチャンス到来だ!」と挙兵を決意。家臣の土肥実平、岡崎義実、加藤景廉、佐々木定綱、盛綱、経高、高綱兄弟らに平氏方の山木兼隆の館を襲させ、これに勝利しました。 ところが、続く石橋山の戦いでは大庭景親(おおばかげちか)、伊藤祐親の前に大敗。北条時政は、嫡男の北条宗時を失っています。しかも、洞窟の中にしばらく隠れていたところ、平氏方の梶原景時(かじわらかげとき/?〜1200年)に見つかってしまったのでした。 「やばい、こ、このままでは・・・」 と、覚悟を決めたところ、なんと景時はこれを見逃し、のちに頼朝に仕え重用されます。さらに、三浦義澄、千葉常胤といった有力者も頼朝に味方し、先祖ゆかりの地である鎌倉へ入りました。 これに対し、平清盛は孫の平維盛(これもり)を大将とする軍勢を派遣。しかし、富士川の戦いで兵士たちが鳥の羽の音に「敵が攻めてきた!」と驚き、戦わずして敗走するという失態を演じてしまいます。その後しばらく、頼朝は東国での支配権を確立することを優先していき、東国武士団を統率する侍所(さむらいどころ)を設置。和田義盛を初代別当に任命します。 また、弟の源範頼(みなもとののりより ?〜1193年)、さらにやはり弟で、奥州藤原氏第3代の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の下で養育されていた源義経(みなもとのよしつね 1159〜89年)が参入してきます。もっとも、頼朝は平氏と異なり、「弟といえども特別扱いはしない」という方針を採っていきます。平氏が一族を重用しすぎて不満を買ったことを見ていたから、ということと母親が違う&母親の身分が低いことから、「オレと同じ源氏でも格が違う」と考えたのでしょう。 ところで鎌倉といえば、覚えていらっしゃいますでしょうか。 元々は北条時政の祖先、平直方が居を構えていたところでした。そこを、娘婿の源義家に譲った場所であり、時政と頼朝にとって互いにゆかりある地だったのです。その上、三方向が堅固な山で囲まれ、もう一方は海という地形は、天然の要害でした。ここを拠点に、街づくりを行っていきます。
一方の清盛は、都を周りの反対を押し切り福原(現、神戸市兵庫区)へ遷都(ただし、半年程度で平安京へ戻ります)。さらに歯向かう東大寺、興福寺を焼き討ちにするなどし、勢力を立て直そうとしますが、1181(養和1)年、64歳で病死しました。続いて平氏を率いることになったのは、息子の平宗盛(1147〜85年)でした。しかし、不幸にも飢饉が起こるなど、平氏にとって状況は悪化していきます。
そのまま平安京になだれ込み、平宗盛らは安徳天皇(位1180〜85年)を奉じて瀬戸内方面へ逃走。一時は大宰府にまで逃れますが、のちに福原へ戻りました。いずれにせよ、まず平安京から平氏を追い出したのは源義仲でした。 ところが、前述のとおり平安京は飢饉で補給もままらならない。 義仲軍が食料を求めて次第に横暴になっていく一方、後白河法皇は「早く平氏を倒せ」と仰られる。おまけに、義仲は自分が保護していた以仁王の遺児、北陸宮を次の天皇にしようとしますが、後白河法皇は安徳天皇の弟を次の天皇にしようと考え、両者は対立していきます。 「そうじゃ、頼朝にコイツを倒してもらおう」 そう考えた後白河法皇は、頼朝に「早く上洛せよ」と手紙をおくります。これに対し、頼朝は 「解りました。ただし、東国の支配権を認めて欲しい」 と要求。後白河法皇はしぶしぶOKし、頼朝は弟の源範頼、義経を中心とした軍勢を派遣しました。これに対し、義仲は後白河法皇を幽閉。頼朝軍との戦いに備えます。 こうして、平氏を倒すという目的はひとまず置いておいて、源氏のトップをめぐる戦いがスタート。1184(元暦元)年、源義仲は瀬田、宇治で防衛線を張りますが、宇治川の戦いで源義経に率いられた頼朝軍はこれを突破します。結局、義仲は北陸に逃れようとしますが、粟津(現、滋賀県大津市)で戦死しました。
ちなみに、弟たちが戦っている間、頼朝は自らの政府機能を着実に整備し、政治を行う公文所(=くもんじょ)と、裁判事務を行う問注所(=もんちゅうじょ)を設置しました。公文所の初代別当、つまりトップは、頼朝が京都から招いた貴族の大江広元(おおえのひろもと 1148〜1225年)が任命。問注所の初代執事は三善康信が任命されています。ちなみに、鎌倉幕府の機構については次回で詳しく紹介します。
前面は海、背後は断崖絶壁の谷・・・と天然の要害で、「さあ源氏の諸君、どう攻めてくるのか?ムフフ・・・」と構えていたところ、なんと鵯越(ひよどりごえ)と呼ばれる急な坂から、突如として源義経率いる軍勢が登場。不意をつかれた平氏の軍勢は、一門の有力な武将を数多く失い敗走。船に乗って屋島(現、香川県高松市屋島)へわたりました。 そこで、源範頼は九州へ向かって進撃しますが、武器や兵糧の補給が上手くいかず苦戦。 一方、源義経たちは海を渡ろうとしましたが、船があまりないのです。どうやって、屋島に向けて進軍すればいいのか。 1つは、水軍を味方につけることです。しかし、それだけでは海での戦いに勝てるかどうか。ですが、時間が経てば経つほど、平氏は勢力を立て直します。そこで1185(文治元)年、義経は梶原景時の制止を振り切り、阿波国の勝浦(現、徳島市)に上陸。まさか、陸から攻めてくるとは思っていなかった平氏は、またもや敗北し、彦島(現、山口県下関市)まで逃れます。ちなみに、この戦いにおいて源氏方の那須与一は、平氏方が船上に用意した扇の的を遠くから射落とせるか・・・というゲームに挑戦。 船の上ですから、当然のことながら的は動きます。 ですが、見事にこれを射落とし、那須与一は敵味方から大喝采を受けました。 ・・・真偽のほどは不明ですが、この時代の戦いって、多少優雅だったということです。 さて、扇を射落とされた平氏は滅亡に向けてまっしぐら。義経たちの進撃は止まらず、さらに水軍を味方に付け、いよいよ決戦。現在の山口県下関市付近で行われた壇ノ浦の戦いでは、本格的な海戦となり、見事に源氏が平氏の軍勢を打ち破ります。清盛の妻、平時子は8歳の安徳天皇を抱えて、海に飛び込み死亡。平宗盛は死にきれずに生け捕りにされ、後に処刑されました。 こうして、源義経は軍事のエースとしてその名をとどろかせました。 しかし、仮にも大将でありながら真っ先に突っ込んでいく姿は、「手柄を独占しようとしている」と周りから反感を買うようになります。また、天皇家に代々受け継がれる三種の神器のうち、宝剣を平氏から取り戻すことが出来ませんでした。
ところが頼朝は、自分を中心とした政権を作ろうとしているのに、弟が力を持ってくることは防がなければなりません。そこで、「私の推挙がない者は、勝手に朝廷の役職に任官してはならない」と命令を出しました。そして、義経は頼朝に冷遇されることになります。どう処遇したものか、頼朝も悩んだことでしょう。 当然、義経は不満たらたらです。そこに手を差し伸べたのが、後白河法皇。 「義経、可哀想よのう。よかろう、そなたを検非違使に任命してやろう」 「法皇様〜!」 この動きに対し、当然のことながら頼朝は激怒します! 「法皇が私と義経の仲を裂いて、対立させようとしているのが解らないのか!」 しかし、義経には解らなかったようで、兄が怒っているというので鎌倉に向けて弁明にやってきました。しかし、鎌倉の直ぐ手前にある腰越で、「それ以上、こちらに入るな」と命令され、会うことが出来ませんでした。やむを得ず、義経は弁明書である「腰越状」を執筆。兄には向かう気はまったくないことを切実に訴え、平安京に帰還しました。
ところが、そんな義経には後白河法皇や、頼朝と対立する叔父の源行家からの甘い言葉が。 頼朝は先手を打っておいたほうが無難と考えたのでしょう。もしくは、あえて挑発したのか、暗殺者を送り込むのですが、撃退されてしまいました。さすがに怒った義経は、後白河法皇に迫り、頼朝討伐の院宣を引き出します。 「法皇様が、頼朝を倒せと命令を下された!」 ・・・ところが、味方はあまり集まりません。 一方、源頼朝は北条時政を後白河法皇の下に派遣。法皇に圧力をかけ、逆に義経討伐の院宣を引き出し、全国に守護(軍事・警察を担当)、地頭(土地を支配・管理し、年貢などを徴収)を設置することを認めさせます。実質的に、鎌倉幕府が始まった瞬間でした。 結局、義経は奥州藤原氏の藤原秀衡を頼って亡命。 ところが、秀衡はまもなく病没し、その子である藤原泰衡が後を継ぎます。泰衡は頼朝からの圧力に屈し、義経を攻め殺してしまいました。そして、その泰衡も頼朝の軍勢の前に敗北し、部下に殺されてしまいます。こうして、栄華を誇った奥州藤原氏は滅亡し、絢爛豪華な平泉はこれ以後衰退していきました。 そして、後白河法皇も亡くなり、1192年に源頼朝は征夷大将軍に任命されました。よく言われる、「いい国作ろう、鎌倉幕府」というのは、この時のことですが、別に征夷大将軍になったから幕府が始まったわけではありません。頼朝自身は「今日から幕府を開きます!」と宣言したわけではありません。そのため、何を持って鎌倉幕府の始まりとするかは諸説あります。 さて1193年、源範頼は反逆の疑いで伊豆の修善寺にて殺害されてしまいます。 また、娘の大姫を後鳥羽天皇のもとに入内(じゅだい)させることによって、朝廷との結びつきを強化しようとしますが、その工作は上手く行かず、そのうちに大姫が亡くなってしまい、失敗に終わりました。そして1198年、源頼朝は死去しました。相模川で橋の供養に出席した帰りに落馬し、重傷を負ったのが原因だということです。一族を犠牲にしながら、武士による政権確立のために奔走した生涯でした。 次のページ(第23回 鎌倉幕府の仕組みとは?)へ 前のページ(第21回 平氏でなければ人ではない?)へ |